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2017/031234567891011121314151617181920212223242526272829302017/05

古河城本丸跡。[古河市]

前回行った〝羽生城跡〟(古城八幡宮)。
そこに設置されていた城跡の案内板の中には、
足利氏や、北条氏の名前がありました。
古河公方。。。

これは行っとかなくては!
というわけでやって参りました茨城県古河市。
古河城 本丸跡」であります。

ドテー。


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川俣関所跡。[埼玉県羽生市]

=== 案内版より ===
旧跡 川俣関所跡
川俣関所は慶長年間(1596-1615)に設けられ、明治2年(1869)に
廃止されるまでの約260年間続いた。

この関所は江戸城警備のため設けられ、一般に「出女に入鉄砲」
といわれるが、江戸に人質になっている諸大名の夫人の脱出を防ぎ、
また江戸の安全をはかるため鉄砲のはいるのを厳しく取りしまった。
日の出に開門、日の入りに閉門し、夜中は一般人の通行を禁じた。


川俣関所跡。[埼玉県羽生市]

関所は利根川沿岸に設けられたものであるが、河川改修のため
今ではその跡は川底になってしまった。

関所跡は、はじめ史跡として県の指定をうけ、その後
昭和32年の改修工事により現在の地に碑が移転され、
昭和36年9月1日旧跡と指定変更された。
云々。。。


古城天満宮に続いてやって参りました。
川俣関所跡」であります。
in 羽生市。


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古城天満宮。[埼玉県羽生市]

埼玉県の羽生市にある「古城天満宮」です。
昔、お城があったと云われている場所に建つ神社さんです。

境内に入ってすぐ、手水舎の手前に
梅樹記の碑があります。


古城天満宮。[埼玉県羽生市]

=== 案内板より ===
羽生官公廟梅樹記の碑
天神社は菅原道真を祭る神社です。北野天満宮を総本社として
全国に一万余りの分祀社があるといわれています。
今では学問の神様として信仰されており、“こち吹かば にほひおこせよ 梅の花
あるじなしとて 春なわすれそ”という道真の句にちなみ梅の樹が植えられています。

この碑の撰文と書(文章をつくり、碑文を書くこと)は、
江戸時代中期の著名な儒学者の亀田鵬斎によってなされました。
鵬斎は寛政異学の禁により弾圧を受けた人物ですが、
現在の久喜市に設立された遷善館に招かれ、近郷の子弟教育に
多くの影響を与えました。
云々。。。

古城天満宮。[埼玉県羽生市] 古城天満宮。[埼玉県羽生市] 古城天満宮。[埼玉県羽生市]
「狛犬」クンと「ご神木」。

===
古城天満宮縁起 (口語)
<口語訳>
武蔵国の北部、羽生の東端に菅公廟が建っていて、古城天満宮と称している。
今から969年前(=明治42年から数えると1030年前になる)の西暦879年、
押領使俵藤太秀郷が創建した。


古城天満宮。[埼玉県羽生市]
「拝殿」。

歴史の伝えるところによると、秀郷は平将門を討伐した功績により武蔵、
下野の二国の押領使に任じられた。
役所を下野(国)に開いて自らここに居住し、また役所を羽生にも開き、
子の武蔵介千晴をそこに住まわせ、武蔵(国)一国に関することを管轄させた。
役所のあるところには、それぞれ菅公廟を建てた。
そのうち下野(国)に建てたのが現在の佐野廟である。

(菅公廟を)大変大事にして西暦1556年、羽生蓑沢城主木戸伊豆守忠朝もまた
菅公を敬って古城天満宮と改称して、城中の守護神とした。


古城天満宮。[埼玉県羽生市]
「本殿」。

昔からの言い伝えによると、忠朝は、新田義重の7代目に当たる
民部少輔基氏から数えて10代目の子孫であるという。
伊豆守に任じられて、武田信玄の武将の一人として仕え、
この地に城を築いて居住し、羽生領5万8千石を領有した。


古城天満宮。[埼玉県羽生市]

天正3年正月25日、北條(=北条)氏に属していた同国(=武蔵国)忍城主
成田下総守の家老小松兵庫、荒川一学と戦い、防戦に努めたが、
衆寡敵せず(=人数に差があすぎて勝目がないこと)、
将兵200名が討ち死にした。
(そして)遂に城は落ちたのである。
その時、大風が吹いていたこともあり、戦火によって社殿や宝物が
焼失してしまった。のちに、村人たちが相談して現在の社殿を再建したのである。


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うつぶしの森。[沼田市]

白沢小学校の横にあります、「うつぶしの森」。
以前よりチェックしていた史跡であります。
in 沼田市。


うつぶしの森。[沼田市]

村の鎮守様「白佐波神社」が鎮座しているこの場所は、
新田義貞さんの三男の方、
新田義宗さんが討ち死にした場所だと伝えられています。


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徳川義季公累代墓。[太田市]

日枝社のすぐお隣、ひとつ高くなったところにあるのが
徳川義季公累代墓」です。
徳川(得川)義季さんは、新田義重さんの四男、
得川氏と世良田氏の始祖となった方です。


徳川義季公累代墓。[太田市]

周りの石垣に沿って、たくさんの石塔が並んでいます。


徳川義季公累代墓。[太田市]

手前の、一回り大きな石塔の説明文がこちら↓


=== 案内板より ===
国指定重要文化財 宝塔
ここは長楽寺の開基徳川次郎義季を初め、徳川氏累代の墓所と伝えられ、
前方後円墳の後円部にあたり、古くから文殊山と呼ばれている。
この宝塔は凝灰岩製で、相輪は失われているが、現存部の高さ
1メートル65センチである。
屋蓋(おくがい)、軒口(のきぐち)の切り方、軒反り、瓶型の塔身等に
鎌倉時代の特色を良く現している優秀な石造宝塔である。


徳川義季公累代墓。[太田市]

昭和6年、周囲の石垣を築造し塔を整備したさい宝塔の基礎底面に
敬白
奉造立多宝石塔
右所造立如件
建治二年子丙十二月廿五日(1276)
第三代住持比丘院豪
と銘文が刻まれているのが発見された。

塔の造立者院豪は寛元年中(1243~1246)に宋に渡った。
正嘉2年(1258)長楽寺第三世となり、以来24年間住職であった。
弘安4年(1281)長楽寺で没し、その後
「円明仏演禅師」と朝廷よりおくり名をされた高僧である。
云々。。。


徳川義季公累代墓を拝見した後は、
長楽寺、開山堂へ。
前回、ヤブっ蚊の攻撃をくらってしまったエリアです(汗、、、


[徳川義季公累代墓~、新田家累代墓。[長楽寺*太田市]]の続きを読む