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古城天満宮。[埼玉県羽生市]

埼玉県の羽生市にある「古城天満宮」です。
昔、お城があったと云われている場所に建つ神社さんです。

境内に入ってすぐ、手水舎の手前に
梅樹記の碑があります。


古城天満宮。[埼玉県羽生市]

=== 案内板より ===
羽生官公廟梅樹記の碑
天神社は菅原道真を祭る神社です。北野天満宮を総本社として
全国に一万余りの分祀社があるといわれています。
今では学問の神様として信仰されており、“こち吹かば にほひおこせよ 梅の花
あるじなしとて 春なわすれそ”という道真の句にちなみ梅の樹が植えられています。

この碑の撰文と書(文章をつくり、碑文を書くこと)は、
江戸時代中期の著名な儒学者の亀田鵬斎によってなされました。
鵬斎は寛政異学の禁により弾圧を受けた人物ですが、
現在の久喜市に設立された遷善館に招かれ、近郷の子弟教育に
多くの影響を与えました。
云々。。。

古城天満宮。[埼玉県羽生市] 古城天満宮。[埼玉県羽生市] 古城天満宮。[埼玉県羽生市]
「狛犬」クンと「ご神木」。

===
古城天満宮縁起 (口語)
<口語訳>
武蔵国の北部、羽生の東端に菅公廟が建っていて、古城天満宮と称している。
今から969年前(=明治42年から数えると1030年前になる)の西暦879年、
押領使俵藤太秀郷が創建した。


古城天満宮。[埼玉県羽生市]
「拝殿」。

歴史の伝えるところによると、秀郷は平将門を討伐した功績により武蔵、
下野の二国の押領使に任じられた。
役所を下野(国)に開いて自らここに居住し、また役所を羽生にも開き、
子の武蔵介千晴をそこに住まわせ、武蔵(国)一国に関することを管轄させた。
役所のあるところには、それぞれ菅公廟を建てた。
そのうち下野(国)に建てたのが現在の佐野廟である。

(菅公廟を)大変大事にして西暦1556年、羽生蓑沢城主木戸伊豆守忠朝もまた
菅公を敬って古城天満宮と改称して、城中の守護神とした。


古城天満宮。[埼玉県羽生市]
「本殿」。

昔からの言い伝えによると、忠朝は、新田義重の7代目に当たる
民部少輔基氏から数えて10代目の子孫であるという。
伊豆守に任じられて、武田信玄の武将の一人として仕え、
この地に城を築いて居住し、羽生領5万8千石を領有した。


古城天満宮。[埼玉県羽生市]

天正3年正月25日、北條(=北条)氏に属していた同国(=武蔵国)忍城主
成田下総守の家老小松兵庫、荒川一学と戦い、防戦に努めたが、
衆寡敵せず(=人数に差があすぎて勝目がないこと)、
将兵200名が討ち死にした。
(そして)遂に城は落ちたのである。
その時、大風が吹いていたこともあり、戦火によって社殿や宝物が
焼失してしまった。のちに、村人たちが相談して現在の社殿を再建したのである。


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うつぶしの森。[沼田市]

白沢小学校の横にあります、「うつぶしの森」。
以前よりチェックしていた史跡であります。
in 沼田市。


うつぶしの森。[沼田市]

村の鎮守様「白佐波神社」が鎮座しているこの場所は、
新田義貞さんの三男の方、
新田義宗さんが討ち死にした場所だと伝えられています。


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徳川義季公累代墓。[太田市]

日枝社のすぐお隣、ひとつ高くなったところにあるのが
徳川義季公累代墓」です。
徳川(得川)義季さんは、新田義重さんの四男、
得川氏と世良田氏の始祖となった方です。


徳川義季公累代墓。[太田市]

周りの石垣に沿って、たくさんの石塔が並んでいます。


徳川義季公累代墓。[太田市]

手前の、一回り大きな石塔の説明文がこちら↓


=== 案内板より ===
国指定重要文化財 宝塔
ここは長楽寺の開基徳川次郎義季を初め、徳川氏累代の墓所と伝えられ、
前方後円墳の後円部にあたり、古くから文殊山と呼ばれている。
この宝塔は凝灰岩製で、相輪は失われているが、現存部の高さ
1メートル65センチである。
屋蓋(おくがい)、軒口(のきぐち)の切り方、軒反り、瓶型の塔身等に
鎌倉時代の特色を良く現している優秀な石造宝塔である。


徳川義季公累代墓。[太田市]

昭和6年、周囲の石垣を築造し塔を整備したさい宝塔の基礎底面に
敬白
奉造立多宝石塔
右所造立如件
建治二年子丙十二月廿五日(1276)
第三代住持比丘院豪
と銘文が刻まれているのが発見された。

塔の造立者院豪は寛元年中(1243~1246)に宋に渡った。
正嘉2年(1258)長楽寺第三世となり、以来24年間住職であった。
弘安4年(1281)長楽寺で没し、その後
「円明仏演禅師」と朝廷よりおくり名をされた高僧である。
云々。。。


徳川義季公累代墓を拝見した後は、
長楽寺、開山堂へ。
前回、ヤブっ蚊の攻撃をくらってしまったエリアです(汗、、、


[徳川義季公累代墓~、新田家累代墓。[長楽寺*太田市]]の続きを読む
法照禅師月船琛海塔所と日枝社。[太田市]

新田荘歴史資料館で勉強した後は、
以前にも来た「長楽寺」へ。

こちらの一角に小さな史跡があります。
月船琛海さんというお坊さんのお墓、
法照禅師月船琛海塔所」です。


=== 案内板より ===
国指定史跡 新田荘遺蹟 東照宮境内
法照禅師月船琛海塔所並びに普光庵跡
法照禅師は、名を深海、字を月船といった。弘安5年(1282)幕府の命により、
長楽寺第5世住職となり、以来25年間仏法興隆につくし、鏡堂大円(長楽寺6世)、
牧翁了一(ぼくおうりょういち・同10世)をはじめ多くの高僧を世におくった。

月船は、徳治2年(1307)に京都の東福寺第8世となり、翌延慶元年(1308)
同寺で没し、法照禅師と朝廷より諡(おくりな)を賜った。
遺骨は、東福寺と長楽寺に分葬されたが、当寺ではその塔所(墓所)は
久しく不明であった。
昭和12年9月、境内の大杉の根を掘ったところ、偶然石櫃が発見され、
その縁に「月船」、蓋石の裏に「月船和尚」と刻まれており、石櫃の中には骨壺
(骨蔵器)が納められていたので、ここが法照禅師の塔所であることがわかった。


法照禅師月船琛海塔所と日枝社。[太田市]

なお、石櫃の西側に6個の骨蔵器が埋葬されていた。
これらは弟子の遺骨で、いわゆる禅宗僧侶の埋葬形式である「普同塔」(共同埋葬)
といわれるものであり、従来文献にのみ見えていたものを実証した
数少ない貴重な遺跡である。


法照禅師月船琛海塔所と日枝社。[太田市]

普光庵は、法照禅師の高弟で、長楽寺第10世牧翁了一が、
師法照禅師のために建てた塔頭(たっちゅう・弟子が師の徳をしたって塔の頭に
建てた庵)である。
長楽寺中において密教道場として大いに栄えたが、
その後、その所在も不明になっていたものである。
しかし、法照禅師の骨蔵器の発見により、近くから当時の礎石も見つかり、
普光庵跡も確認され、現在も保存されている。
云々。。。


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新田荘歴史資料館。[太田市]

前回の古墳跡に続いて「新田荘歴史資料館」です。
in 太田市。

新田荘関係を中心に、太田市の古代、中世、近世と、
時代ごとの資料、文化財が展示されている歴史博物館です。
ささ、参りましょう。


新田荘歴史資料館。[太田市]

入ってすぐに目を引くのはこちらの模型です。
長楽寺、世良田東照宮の界隈が再現されたミニチュア。

そして館内で上映されているビデオを鑑賞。
これが結構勉強になります♪


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