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上杉家廟所。[山形県米沢市]

山形県米沢市です。
上杉神社から車で10分くらいのところにある、
上杉家廟所」です。

こちらは廟所手前にある、上杉家歴代藩主の菩提寺の「法音寺」さん。


=== 案内板より ===
善光寺如来(法音寺)
法音字は上杉家歴代藩主の菩提寺で、
秘仏の善光寺如来三尊像と付属の仏具を安置している。
その来歴は、弘治元年(1555)の第2回川中島合戦の際、
上杉謙信は長野善光寺の仏像・仏具を越後に持ち帰り、
その後上杉家の移封に伴って米沢に移った。


上杉家廟所。[山形県米沢市]

米沢城本丸の謙信遺骸を祀る御堂に安置され、維新後は上杉家で所持、
昭和9年に上杉家から法音寺に納められた。
仏具の金銅五鈷鈴(2個)や金銅五鈷杵には、貞応3年(1224)、
仁治2年(1241)といった鎌倉時代の年号や「善光寺」の銘が刻まれ、
金銅舎利塔(鎌倉時代の作と推定)と共に山形県文化財に指定されている。
云々。。。


11のお寺さんから成る能化衆というのがあったらしいですが、
後で調べてみたいですネ。
それでは。。。



上杉家廟所。[山形県米沢市]

正面の冠木門をくぐって、
ではでは参りましょう。



上杉家廟所。[山形県米沢市]

受付の隣に小さな資料館を発見っ (=゚ω゚)ノ


===
上杉家墓所資料館
上杉家墓所資料館は、平成6年度から平成19年度の14ヵ年をかけて実施した、
国指定史跡「米沢藩主上杉家墓所保存整備事業」の工事で撤去した
廟屋部材等の有効活用及び保存修理事業の内容を周知する目的として
旧拝殿の建物を利用して開設するものである。
収納している部材は、歴代藩主の廟屋で使用されていた柱・鬼瓦・妻飾り・
礎盤等の部材や和釘・かすがい・宝珠等の金属製品、治憲廟から出土した墓誌・
数珠のレプリカ等31種100点余りで、当時の建築技術や墓所の形態を知る貴重な資料となる。
この旧拝殿とされる建物は、歴代藩主廟を祀る拝殿として
廟所参道の中央(景勝廟の正面)に設置されていたと伝わるもので、
明治9年(1876)、家祖謙信公の御遺骸を旧米沢城から御廟所に遷座する際に、
廟所の南門側に移設されたとされる。
旧拝殿の建設時期については、記録がないので詳細は不明であるが、
建築材の形状や劣化状況から明治以前(江戸後期)の建物である可能性が高い。
云々。。。



上杉家廟所。[山形県米沢市]

===
上杉治憲墓所の調査
平成5年5月19日、治憲廟内の五輪塔が倒壊して東側壁が破壊される事故が起こった。
基壇内部の空洞化による影響で陥没したことによる。国・県・市と協議し、
陥没の原因解明と保存修理方法を探るための発掘調査を平成7年度に実施した。



上杉家廟所。[山形県米沢市]

調査の結果、深さ約11尺(3.3m)の墓壙を上部から一辺9尺(2.7m)・7尺(2.1m)・
4尺(1.2m)の方形三段に掘り下げた底面から幅4尺、深さ5尺(1.5m)の木棺を設置した内部に
幅・深さ2尺3寸(69cm)合口蓋八角棺を設置する三重構造の埋葬施設であることが
確認された。
外箱と棺の間には石炭を充填し、上部に多量の木炭を敷き詰めてあり、
精製した砂と砂利、粘土で固めている。
棺の内部には、上から落ち込んだと見られる墓誌が検出され、
棺の底部付近に頭骨・大腿骨・歯・頸骨などの御遺骨が小破片として認められ、
木刀2振と数珠、六文銭の副葬品が確認された。



上杉家廟所。[山形県米沢市]

上杉治憲「鷹山」公は、文政5年(1822)3月12日、米沢で死去した。
同3月19日、御廟所で葬儀を行い埋葬したと記録に残っている。
埋葬手法や内容についても概ね記述と一致している。
鷹山公は困窮した米沢藩の財政を再建した人物として、全国的に知られる名君である。
自らも質素倹約に努め、死してもなお、公の崇高な意思と教訓が薄葬の出土品にも
現れている。
云々。。。



上杉家廟所。[山形県米沢市]

廟所までは杉並木の参道です。
「上杉家墓所資料館」で軽く勉強を済ませ、
いよいよ参りましょう、「上杉家廟所」です。


===
史跡 米沢藩主上杉家墓所
米沢藩主上杉家墓所は、江戸時代を代表する大名家墓所として、
昭和59年(1984)1月11日に国の史跡に指定された。
上杉家墓所(御廟所)は、本来、家祖上杉謙信公の御遺骸の避難場所であったが、
元和9年(1623)に初代景勝公の死亡によって藩主の墓所となった。
遺体は火葬にされ、遺骨は高野山に納められるが、
残った灰や衣服を基壇内に埋納した上部に五輪塔を設置し、
入母屋の廟屋を建てたのが最初である。
以後、歴代藩主の御廟所として世子顕孝廟を含む11代斉定廟までの13棟が造営されている。
廟屋の構造形式は、初代景勝廟~7代宗房廟の7棟が入母屋造(火葬)、
8代重定廟~11代斉定廟・顕孝廟の5棟が宝形造(土葬)となっており、
埋葬方式によって廟屋を区分するのが特徴である。
文化14年(1817)に書かれた「御廟絵図」をみると、四方を堀と土塁で区画したもので、
南正面に門枡形が設置されてすぐに番屋がある。
門を入ると東西の参道石敷から各廟屋に参道が延びており、
その前には拝殿が建立されている。
廟屋及び参道の側面には家臣達が奉納した石灯篭が隙間なく並列されている。
明治9年(1876)、家祖謙信公の御遺骸を旧米沢城から御廟所に遷座するのに伴って、
既存の墓所基壇の統合や拝殿・石灯篭の撤去等の大改修を行ない
現在の形態となったものである。
云々。。。


と、ここまでで、
つづく。。。



以前の記事はこちらから。
上杉神社。その2 [山形県米沢市]

【上杉家廟所】
@山形県米沢市御廟

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