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史跡 近世念珠関址。[山形県鶴岡市]

「古代鼠ヶ関」、「源義経上陸の地」に続いてやって参りました、
史跡 近世念珠関址」であります。

〝勧進帳の本家〟と記された柱が建ってます。


=== 案内板より ===
史跡 近世念珠関址(ねずがせきし)
関所の変還
鼠ヶ関(鶴岡市鼠ヶ関・旧念珠関村)には関所址が2ヶ所ある。
ここ(鼠ヶ関字関)に慶長年間(1596~1614)から明治5年(1872)まで
設置されていた近世の関所址と、ここから南方約1キロメートルの県境にある
古代の関所址である。
古代の関所、鼠ヶ関は、勿来関、白河関と並んで
奥羽三大関門の1つとされていた。
この鼠ヶ関が文献に表れる最も古いものは、能囚の歌枕の「ねずみの関」であり、
10世紀ころには文人や旅人に親しまれていた。
大正13年(1924)近世の関所址を主たる対象に、
内務省より「史蹟念珠関址」として指定をうけ、
それ以後この名称が古代から近世に至る関所名とされてきた。
云々。。。



===
古代鼠ヶ関址
昭和43年(1968)10月、山形、新潟、両県境一帯の発掘調査に
より古代関所址の存在が確認された。
遺跡は、棚列址、建物址、須恵器窯址、製鉄址、土器製塩址が
地下1メートルほどの所に埋蔵されており、関所の軍事施設と
高度の生産施設をもつ村の形態を整えていた。
この遺跡の年代は、平安中期から、鎌倉初期の10世紀から12世紀にわたっている。
これらを総合して「古代鼠ヶ関址および同関戸生産遺跡」と名付けられた。
云々。。。



史跡 近世念珠関址。[山形県鶴岡市]
「延宝2年絵図」。

===
近世念珠関址
このように古代の関所址の貌が明らかになったことから、
関にある近世の関所址を、「近世念珠関址」とし、
「古代鼠ヶ関址」とを区別することにした。
近世念珠関は江戸時代には「鼠ヶ関御番所」と呼ばれていた。
その規模は延宝2年(1674)や弘化3年(1846)の絵図によると街道に木戸門があり、
門に続いて柵が立てられていた。



史跡 近世念珠関址。[山形県鶴岡市]
「弘化3年絵図」。

番所の建物は三間(約6メートル)に七間(約14メートル)平屋建、
茅葺で屋内は三室に仕切られ、中央が取調所、
両側が役人の上番、下番の控室であった。
またこの番所は沖を通る船の監視や港に出入りする船の取り締まりもしていた。
番所の建物は廃止跡、地主家の住居となり、後に二階を上げるなど改築されたが、
階下は昔の面影をとどめている。
関守りは、最上氏時代の慶長年間から鼠ヶ関の楯主佐藤掃部が国境固役に当った。
酒井公転封後の寛永5年(1628)からも鼠ヶ関組大庄屋となった掃部が
代々上番と沖の口改役となり、下番は足軽2人がいた。
天和2年(1682)以後は藩士が上番となり掃部は追放者立会見届役となった。
云々。。。



史跡 近世念珠関址。[山形県鶴岡市]
「史蹟念珠関址」の碑。

===
鼠ヶ関と源義経
「義経記」の義経一行奥州下りの鼠ヶ関通過の条は、
歌舞伎の「勧進帳」を思わせるごとき劇的場面として描かれている。
また、当地方には次のような物語が伝えられている。
義経一行は越後の馬下(村上市)まで馬で来るが、馬下からは船で海路をたどり
鼠ヶ関の浜辺に船を着け難なく関所を通過した。
そして、関所の役人の世話する五十嵐治兵衛に宿をもとめ、
長旅の疲れをいやし、再び旅立って行ったという。
云々。。。


古代と近代の関所跡が残る鼠ヶ関の地。
昔から交通の要だったことがうかがえます。
源義経さん一行が難なく関所を通過したと云う言い伝えも
面白いですネ。



以前の記事はこちらから。
源義経上陸の地碑。[山形県鶴岡市]
山形県・新潟県境標と古代鼠ヶ関址および同関戸生産遺跡。[山形県鶴岡市]

【近世念珠関址】
@山形県鶴岡市鼠ヶ関

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