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下仁田戦争跡。[甘楽郡下仁田町]

下仁田町です。
下仁田戦争の史跡を少しだけ巡ってみましょう。


下仁田戦争跡。[甘楽郡下仁田町]

信用組合の道路をはさんで向かい側。
水戸天狗党本陣跡」。
大正6年の火災により焼失。再建された建物です。

総大将の武田耕雲斎の他、幹部数10名が宿営したそうです。


下仁田戦争跡。[甘楽郡下仁田町]

立派な建物であります。。。


下仁田戦争跡。[甘楽郡下仁田町]

本陣跡から少し行ったところにある
野村丑之助の墓・義烈照千古の碑」です。


=== 案内板より ===
- 野村丑之助の墓・義烈照千古の碑 -
尊王攘夷の旗をひるがえして筑波山に挙兵した水戸浪士(天狗党)たちは
武田耕雲斎を総大将として、京にいる一橋慶喜に尊王攘夷を理解してもらい、
朝裁を請おうとして西上の途についた。

元治元年(1864)11月16日、幕府の命令により追撃してきた高崎藩と
下仁田村で交戦となった。
これが下仁田戦争であり高崎藩士36名・水戸浪士4名が壮絶な戦死を遂げている。


下仁田戦争跡。[甘楽郡下仁田町]

ここに眠る野村丑之助は、途中の那珂湊の戦いで戦死した父の意志を受け継ぎ、
僅か13歳で初陣するが、小野派一刀流の使い手である高崎藩士内藤儀八との戦いで
身に数箇所の深手を負い、「なきがらは程なく土にかわるとも魂はのこりて皇国を守る」
の辞世を残して切腹して果てており、下仁田戦争悲話として長く語り継がれている。

「義烈千古を照らす」の碑は昭和16年11月16日、
下仁田町旭町内有志が全町より募金して建立し、
碑文は頭山満に依頼したものである。
云々。。。


下仁田戦争跡。[甘楽郡下仁田町]

そして、「青岩河原」です。


下仁田戦争跡。[甘楽郡下仁田町]

以前に来た時はジオパーク目的、
青い石畳が特徴のこちらの河原です。


下仁田戦争跡。[甘楽郡下仁田町]

捕えられた高崎藩士が切腹した場所だったとは知りませんでした。
下仁田戦争跡の1つとしてリーフレットに紹介されていました。


下仁田戦争跡。[甘楽郡下仁田町]

こちらは戦争跡ではないのですが、
野村丑之助さんのお墓の所にいらっしゃった小さなお地蔵様です。


===
この地蔵菩薩は、平成18年8月、花車小屋の土間コンクリートが老朽化のため、
打ち直し工事施工の際に入口中央部分より偶然掘り出されたものです。
いつの時代に、どのような理由で埋設されたのかは不明でありますが、
区ならびに祭典役員で相談した結果この場所に安置することとなり、
本日常住寺住職によりねんごろに供養を営んだところであります。

ちなみに、この地蔵菩薩の衣には「影散童子(ようさんどうじ)」、「8月25日」
との彫りが認められますが、年号の入っていないことが惜しまれます。
また、襟の後ろが立っている僧侶のような衣をまとっているお地蔵様は
大変珍しいとの事です。
云々。。。



以前の記事はこちらから。
下仁田町歴史館。[甘楽郡下仁田町]
道の駅しもにたと、青岩公園。[甘楽郡下仁田町]

【水戸天狗党本陣跡】
@群馬県甘楽郡下仁田町下仁田

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