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2020/051234567891011121314151617181920212223242526272829302020/07

上田城跡。[上田市]

=== 案内板より ===
尼ヶ淵と石垣
本丸南側の尼ヶ淵は崖面がもろく崩れやすい性質だったことから、
築城以来崖の保護対策が講じられてきました。
南・西櫓下の下段には享保の洪水(享保17年・1732)後に設置された
大規模な石垣があります。
本丸東西虎口の土橋より南側の堀は、
正保4年(1647)江戸幕府に提出した絵図では『から堀』と記されており、
比較的早い時期、または当初から空堀だったことが分かります。
ただ東虎口側の東南隅にある石垣には排水口があり、水を入れた、
あるいは入れる意図があったことが分かります。
云々。。。


上田城跡。[上田市]

===
南櫓下の石垣について
南櫓下の石垣は、上田城の南面を護る天然の要害「尼ヶ淵」より切り立つ
断崖に築かれています。
中段石垣は、長雨により一部崩落したことから修復工事を実施しました。
中央部の崖面露出部分は、
崖が張り出しており石垣が無かった部分であることから、
原形に基づきモルタルで修復しました。
云々。。。


上田城跡。[上田市]

===
尼ヶ淵(城の南側を守った天然の堀)
ここから本丸の櫓を見上げると、その守りの堅さを実感します。
江戸時代にはここを千曲川の分流が流れていたのですから、
さらに防備は強固なものになりました。崖の高さは約12メートルあり、
上田泥流層の垂直な崖がさらに敵の侵入を難しくしました。

ところが千曲川が増水した際に、崖を川の水が削ってしまうことから、
歴代の城主はこの対応に頭を痛めました。
崖面に築かれた石垣には、算木積みの古い技法と考えられるものもあり、
仙石氏の頃、あるいはそれ以前に傷築かれた石垣である可能性もあります。
そして、享保17年(1732)の大水では、ついに崖が大きく崩落してしまいました。
そのため城主・松平忠愛は崖を守るための石垣の築造を計画し、
翌年から工事を始めました。
享保21年、石垣は完成しますが、
石材と石工の不足から当初の計画通りにはいかず、
南櫓と西櫓の下を除いて、石垣は低くなったり、
造られずに終わってしまいました。
云々。。。


上田城跡。[上田市]

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尼ヶ淵の崖
上田城跡駐車場や芝生広場の一帯は、江戸時代には千曲川の分流が
流れていた川原で、尼ヶ淵と呼ばれています。
この川は上田城を守る天然の堀の役割を果たしていましたが、
大水が出ると尼ヶ淵の崖を侵食することがあり、まさに諸刃の剣でした。

崖に見られる地層は3つです。上から①上田泥流層(火山が崩壊した砂礫が
堆積したもの)、一番下には③染屋層(川の作用で砂礫が堆積したもの)、
そして、この2つの層の間には、②火砕流に由来する粉じんが堆積しています。
3つの地層の中では、②の層が一番軟らかくてもろいため、
大水のたびに②の層を中心に崖が削られてしまい、
崖が崩れて櫓に被害が及ぶ心配がありました。
そのため、上田藩主・松平忠愛は享保18年(1733)から石垣を築いて、
崖を侵食から守りました。
尼ヶ淵の石垣のほとんどは、このように崖を守るために造られたものです。
云々。。。


上田城跡。[上田市]

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二の丸櫓台と煙硝蔵
二の丸にあった3箇所の虎口には櫓台が東西に各1箇所、
土塁上には6箇所に設けられていました。
現在遺構が保存されているのは東虎口の1箇所と、土塁上の2箇所のみです。
櫓台の存在から、上田城復興に着手した仙石忠政は二の丸の各虎口にも
櫓門と櫓を構築する予定だったことが分かりますが、寛永5年(1628)
忠政が病死したため未完成に終わりました。
また仙石氏在城以降の絵図には、二の丸南西部に煙硝蔵が1棟描かれています。
煙硝蔵は仙石氏が上田城主だった貞享3年(1686)に新設され、本丸内の櫓に
保管されていた煙硝(火薬)を移しました。
云々。。。


上田城跡。[上田市]

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本丸西虎口
本丸には東西2箇所、二の丸には3箇所の虎口がありました。
虎口とは、城内への敵の侵入を防ぐために城の門に枡形を造って
曲げるようにした出入り口のことです。
平成3年に実施した本丸西虎口の発掘調査では、櫓門の礎石及び石垣の根石等が
検出されました。このことにより、本丸東虎口と同様、西虎口にも
櫓門1棟があったことが分かりました。
また石垣の天端には、櫓門下層最前列の冠木と、最後列の敷桁を載せるための
切り欠きが残っています。
云々。。。


上田城跡。[上田市]

===
上田城本丸北西隅櫓跡
仙石忠愛によって復興された上田城には、本丸に7棟の2層隅櫓と2棟の櫓門が
建てられていました。本丸の東西の虎口(出入口)には、一対の石垣が築かれ、
櫓門と2棟の隅櫓が建てられ、北東部の土塁上には2棟、北西部の土塁上には1棟の
隅櫓が建てられていました。本丸北西部の隅櫓は、二の丸西虎口の正面に位置し、
西側から侵入してくる敵に備えた櫓でした。

これらの建物は、明治維新後に政府によって民間に払い下げられ、
現在の西櫓以外の建物は取り壊されたり、移築されたりしてしまいました。
その後、昭和17年に2棟の隅櫓が上田市民の寄付金によって買い戻され、
昭和18~24年にかけて現在の南櫓と北櫓として復元されました。
また、平成6年には本丸東虎口に櫓門が復元され、往時の姿を取り戻しました。
本丸北西部の隅櫓跡は、平成6年度に発掘調査が行われ、
土塁の上に直接建てられていた建物であったことが確認さました。
現在、地上に露出している礎石は、隅櫓の中央に建てられた芯柱をすえる
ためのもので、円形の柱座が彫られており、
芯柱は直径約50cmの丸太材の柱であったことがわかります。

この礎石の周囲には約2mの範囲で栗石が残っており、
本来の位置を留めていることがわかりました。
また、建物の基礎材をすえるための栗石列や小礎石も検出され、
この隅櫓が現存する西櫓などと同じく南北5間、
東西4間の規模を有する建物であったことが確認されました。


上田城跡。[上田市]

【金箔瓦】
平成3年度に行われた本丸堀の浚渫工事の際に、堀底より大量の屋根瓦が出土しました。
これらの瓦には、五七桐紋鬼瓦や菊花紋軒丸瓦など豊臣氏にゆかりの深い文様を持つ
瓦が含まれており、豊臣秀吉に臣従していた真田昌幸によって建てられた建物に
使用されていた瓦であることがわかりました。
真田氏時代の上田城の様子は、絵図などの史料が乏しくほとんどわかっていませんが、
城内の各所から出土する真田氏時代特有の瓦によって、瓦を葺いた建物が
城内に多数存在していたことが推測されます。中でも北西隅櫓跡の西側の堀底からは
金箔の付着した鯱鉾の破片が数点出土し、真田氏時代にはこの付近に黄金色に輝く
鯱鉾の載った建物が存在していたことが推測されます。
云々。。。


上田城跡。[上田市]

===
本丸西櫓
本丸には7棟の櫓がありました。いずれも、元和8年(1622)真田信之の松代転出後に
上田城主となった仙石忠政が行った、寛永3年(1626)からの
上田城復興工事の際に建てられました。
現在、本丸の東西虎口には隅櫓が3棟ありますが、南櫓・北櫓の2棟は、
明治維新後、他所へ移築されていたものを現在地に再移築したものです。
西櫓のみが寛永期の建築当初の部材を残し、外観もほぼそのままの姿を残す
西櫓は全国的にも貴重な建物であり、昭和34年には南櫓・北櫓とともに
長野県宝に指定されました。

櫓の構造は桁行5間(約9m)、梁間4間(約7.2m)の二重櫓で、主要材は松と栂です。
屋根は入母屋造で本瓦葺き、外壁は下見板張りで一部を白漆喰の塗籠としています。
窓は「武者窓」という形式で、突き上げ戸が取り付けられており、
棒で突き上げてすばやく開けられるようになっています。
1階の狭間(矢・弾丸を放つための窓)は、いずれも下方の敵を狙いやすいよう
低い位置に開けられています。南・北面では左から縦長の矢狭間が1つと、
正方形に近い鉄砲狭間3つが並んでいます。
また西面では、左側に矢狭間が1つ、その右に鉄砲狭間が並んで配置されています。
云々。。。


上田城跡。[上田市]

===
本丸東虎口
現在、本丸の東西虎口には3棟の櫓が残っています。
東虎口にある南北2棟の櫓は明治8年(1875)に民間に払い下げられ、上田城の北方、
太郎山山麓の上田遊郭に移築されました。昭和16年(1941)には市内の建築業者から
東京の料亭に転売されるという事態が起こりましたが、市民らにより上田城址保存会が
結成され、2棟の櫓を買い戻しました。その後、戦局の悪化による中断をはさみながら
同24年(1949)に現在地に復元。
南櫓・北櫓と名付けられ、上田城跡のシンボルとして人々を迎えることになりました。
昭和34年には、西櫓とともに長野県宝に指定されています。
また現在東虎口にある櫓門は、古写真等を根拠に平成5年度に復元したものです。
云々。。。


上田城跡。[上田市]

===
真田石
大手の石垣に巨石を用いる例は多く、城主はその権威を示すために、
大きさを競ったという。真田石は、真田信之が松代に移封を命じられた際に、
父の形見として持っていこうとしたが、微動だにしなかったという伝承がある。
現在ある石垣は仙石忠政が造ったものであるが、真田氏に寄せる人々の敬愛の
情がうかがえる伝承である。
云々。。。


上田城跡。[上田市]

久しぶりの「上田城跡」でした。

今回は南側の駐車場に車をとめ、
南櫓下の石垣を拝見、西櫓下の入り口から入城しました (=゚ω゚)ノ

案内が長文でしたので、ここまで読んでくれた方は
ありがとうございます。
地図の下に【omake】もありますから、こちもどうぞ(笑

さぁ、さぁ、続いては、城内に鎮座する真田神社に参りましょう。



以前の記事はこちらから。
上田市にて、お寺さん巡り、その3  上田市★上田城跡
信濃国分寺跡史跡公園。August. 2018 [長野県上田市]
以前のお城はこちらから。
前橋城車橋門跡。[前橋市]

【上田城跡】
@長野県上田市二の丸





【omake】
=== 案内板より ===
徳川家康命で築かれた上田城
上田城は天正11年(1583)に徳川家康の命令で築城を始めました。
この時、真田昌幸は家康の力を利用して居城を造らせ、うまく城主に納まったのです。
ところが、沼田領をめぐる家康との対立が原因で、昌幸が越後の上杉景勝に
主君を変えたことから、天正13年には上杉方の城として完成します。
この間、徳川方7千の軍勢の攻撃を受けた昌幸でしたが、
わずか2千の兵でこれを撃退しました(第一次上田合戦)。
ここ上田は当時、徳川・上杉ふたつの勢力がぶつかった場所ですが、
上田城はまさに最前線の城として生まれ、改造がされました。
しかし、この時の上田城の姿はよく分かっていません。

合戦後、昌幸は上田城を豊臣秀吉配下の城として
金箔瓦に飾られた城郭へと変貌させます。本丸堀の北西部から背びれなどに
金箔が残る鯱瓦などが出土しています。このことから、天守のような建物が
このあたりに存在したのではないかと推定されています。
土塁や堀で防御を固めた実戦的な構えの上田城でしたが、
石垣は少なかったものとされます。

秀吉の没後、昌幸と次男・信繁(幸村)は関ヶ原の合戦で豊臣方(西軍)につきました。
昌幸らは徳川秀忠の西上を数日間に渡って上田城で足止めし(第二次上田合戦)、
関ヶ原に遅参させましたが、合戦に勝利した徳川方(東軍)の戦後処理により、
上田城はことごとく打ち壊され、徳川方についた長男・信之に引き渡されました。
信之は城を復興せず、御殿を三の丸に造って上田藩を治めました。

現在の上田城の姿は、信之の後に上田藩主となった仙石忠政が
寛永3年(1626)から復興したものが基本となっています。
本丸には櫓が7棟と櫓門が2棟造られました。
このような狭い本丸に9棟もの建物が並んでいたというのは、
他の城郭にはあまり例が無いことです。
本丸・二の丸・三の丸・小泉曲輪、それに天然の堀である尼ヶ淵の要害、
外堀とした現在の矢出沢川・蛭沢川を配し、梯郭式と呼ばれる縄張りを完成させました。
この時、忠政は真田氏時代の堀を大きく変えずに掘り返したものと考えられています。

なお、二の丸堀の北側と西側は百間堀と呼ばれる大きな堀でした。
堀の中に昭和3年に完成した野球場と陸上競技場は、
堀の地形を上手に活かして造られた近代遺産です。
広大な堀の痕跡をぜひご覧ください。
云々。。。


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