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信濃国分寺跡史跡公園。[上田市]

長野県です、上田市です。
信濃国分寺跡史跡公園」ですっ。


=== 案内板より ===
信濃国分寺跡史跡公園(国指定史跡)
国分寺は天平13年(741年)、聖武天皇発布の詔勅にあるように
「造塔の寺は、兼ねて国の華なり、必ず好処を択びて、実に長久なるべし」と、
国の華である国分寺はその国の最も良い場所が選ばれ、
信濃の国では、今の上田市が選ばれた。

昭和38年から同46年までの発掘調査の結果、中門・金堂・講堂・回廊・塔・僧房・
築地塀・尼房・経蔵・北門などの遺構を確認あるいは推定することができ、
寺域は、僧寺がおよそ東西176メートル、南北178メートル、尼寺は東西148メートル、
南北150メートルと判明した。
これらの遺構の保存と活用のため、信濃国分寺跡史跡公園として整備され、
全国で最初の史跡公園に指定された。また、公園内の
上田市立信濃国分寺資料館には、国分寺や上田地方の原始・
古代の資料が展示され、国分寺跡から出土した瓦窯跡(がようあと)の観察施設も
全国的に珍しいとされている。
云々。。。


信濃国分寺跡史跡公園。[上田市]

というわけでやって参りました国分寺跡。
ここの史跡は真ん中を線路が通っているので、
北と南に分断されています。

本日は時間もないことなので、「尼寺跡」の方を拝見しましょう♪


信濃国分寺跡史跡公園。[上田市]
発掘調査により築地塀の基礎と推定された石敷と石列。

先ずは北側にあった「尼寺築地塀跡」です。


===
尼寺築地塀跡
ここは国分尼寺の北東隅にあたり、尼寺の内と外を区画する
築地塀があったと推定されています。
築地塀はお寺の境内と境外を区画する塀で、基礎に柱と貫の骨組みで
木の枠を作り、そこに土を入れてつき固める「版築」という方法で
作られる物が多く、屋根に瓦や板などで葺いたものもあります。


信濃国分寺跡史跡公園。[上田市]

信濃国分寺の境内と境外の区画施設が築地塀であるのか、
板塀であるのか、いまだにはっきりとはせず、現在も発掘調査により
確認作業をしています。また、その規模も僧寺は100間(約178m)四方、
尼寺は80間(約150m)四方と推定されていますが、
これもはっきりとしません。
現在は想定される築地塀のラインにドウダンツツジを植えて表示しています。
云々。。。



信濃国分寺跡史跡公園。[上田市]

そして「北門跡」。


===
尼寺北門跡
基壇規模は東西13m×南北9mで、建物は正面10.2m、側面6.4mと想定される。
なお、尼寺跡を囲む築地の跡と思われる遺構も検出されている。
云々。。。


南側へ渡るには踏切ではなくて、
地下道が設置されています。
こちらを使って、さぁ南へGO→


信濃国分寺跡史跡公園。[上田市]

===
尼寺跡案内
国分尼寺(法華滅罪之寺)跡は、僧寺(金光明四天王護国之寺)跡の西方40mと
寺域がきわめて近接していることが、昭和41年(1966)からの発掘調査でわかりました。
この尼寺跡は、古文書に「二寺の堂」「にぢのだう」などの地字が
残されているところでした。


信濃国分寺跡史跡公園。[上田市]
「廻廊跡」。

尼寺跡では、中門・金堂・講堂・回廊・経蔵・鐘楼・尼房・北門の遺構が明らかにされ、
南大門の位置も推定されました。
80間(約148m)四方の寺域のなかに、南大門・中門・金堂・講堂・尼房・北門が
南北一直線にならんでいます。
中門と講堂は回廊(単廊)でつながり、講堂の東に鐘楼・西に経蔵があります。
このような伽藍配置を東大寺(国分寺)式といいます。


信濃国分寺跡史跡公園。[上田市]
「尼房跡」。

金堂は今の寺院の本堂にあたり、釈迦牟尼仏が安置され、講堂は法を説き
経を講ずる場所でした。
経蔵は経典を納めたところで、鐘楼は梵鐘をかけた建物です。
尼房は尼僧が生活する宿舎でした。
発掘調査では、古瓦をはじめ、須恵器・土師器など多くの遺物が出土しました。
八葉複弁蓮華文鐙瓦や均正唐草草文宇瓦とともに、日本ではじめて造られた
銅銭「和同開珎」も発見されました。
これらは全て信濃国分寺資料館に収蔵し、展示されています。

遺構は埋め戻しによる基壇復元方式がとられています。
建物跡の表面をアスファルトで覆い、芝生や玉砂利で区画し、築地跡には、
ドウダンツツジを植え、寺域がよくわかるようになっています。
云々。。。


信濃国分寺跡史跡公園。[上田市]

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尼寺講堂跡
根固めの栗石群から明らかになた規模は、基壇が東西31.0m×南北21.6mで、
建物は正面22.0m、側面12.4mの7×4間と推定される。


信濃国分寺跡史跡公園。[上田市]

===
尼寺経蔵跡
大きさは南北10.8m×東西6mで、3×2間と判明した。
この建物跡を経蔵とする直接の資料の発見はなかったが、
建物の位置と規模から経蔵と想定される。
云々。。。


信濃国分寺跡史跡公園。[上田市]

===
尼寺金堂跡
礎石の栗石地業が10ヶ所で検出されたほか、基壇の南・東・西の三方で
石組の雨落溝が良好に検出された。
特に基壇東縁の一部では立った状態の羽目石が出土して注目された。
基壇は東西29.7m×南北19.5m、建物は正面22.4m、側面12.4mの7×4間と推定される。
云々。。。


信濃国分寺跡史跡公園。[上田市]

===
尼寺中門跡
根固めの栗石などが発見された。基壇規模は東西19.5m×南北13.0m
ほどが想定され、建物は正面11.8m、側面6.4m、3×2間の四脚門と考えられる。
云々。。。


信濃国分寺跡史跡公園。[上田市]

===
ここは、古代国分寺の尼寺回廊南西隅にあたります。
天平13年(741年)聖武天皇により国分寺建立(建設)の詔(みことのり・命令)が下され、
僧寺(金光明四天王護国之寺)、尼寺(法華滅罪之寺)の建立が全国に命じられました。
僧寺には僧侶20人、尼寺には尼10人がおかれ、僧や尼は毎月8日に最勝王経を
転読することなど、定められた規則に従って生活するこが義務づけられていました。
ところが各地の国分寺造営(建設事業)は期待したようにはかどらなかったようで、
天平19年(747年)には国分寺の造営を督励(催促)する詔が発されています。


信濃国分寺跡史跡公園。[上田市]
昭和41年(1966)尼寺金堂雨落跡発掘調査。

天宝勝宝4年(752)に総国分寺である東大寺の大仏開眼供養が執り行われ、
総国分尼寺の法華寺も建立されました。
しかし、天平宝字3年(759)になっても国分寺造営を督促する記事が
「続日本書紀」にみられ、西暦770年前後に至ってようやく大半の国で
国分寺が完成したと考えられています。

信濃国分寺跡では、昭和38年から46年に至る数次にわたる史跡整備と、
これに伴う発掘調査が並行して行われ、僧寺・尼寺の伽藍の全容と、
これに伴う多くの資料を検出することができました。
この尼寺跡では、北から北門・尼房・講堂・金堂・中門が直線上に並び、
講堂と中門が回廊で結ばれ、講堂の西には経蔵も確認されました。


信濃国分寺跡史跡公園。[上田市]

ただ南大門と尼寺全体を取り囲む80間(約148m)四方と推定される
築地塀の南辺と西辺はまだ確認されていないことや、
建物の詳細については解明されていないことも多く、
これからの調査や研究が必要とされています。
云々。。。


8年ぶりに訪れた「信濃国分寺跡」です。
炎天下の中での見学は少ししんどかったですが(笑
やっぱり、ヨカッタぁ~♪
この後、資料館に展示されているお宝も拝見しましたョ、もちろんっ★

全国の国分寺が巡れたらいいなぁと、
史跡に感動した今日の上田市であります。。。



以前の記事はこちらから。
上田市にて、お寺さん巡り、その18  上田市★信濃国分寺跡史跡公園
堂の前遺跡。[山形県酒田市]
以前の上田市はこちらから。
柳町のいろいろ。 [上田市]

【信濃国分寺跡史跡公園】
@長野県上田市国分

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