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八幡山古墳石室。[埼玉県行田市]

埼玉県行田市です。
どこか面白いトコないかな~?と、検索していて偶然見つけた史跡です。
八幡山古墳石室」。


八幡山古墳石室。[埼玉県行田市]

土が盛られていない、石室がむき出しになった古墳。
こちらが入口です。

頑丈にロックされていて入れません (=゚ω゚)ノ


八幡山古墳石室。[埼玉県行田市]

カメラを通して見ると、中はこんなです。


八幡山古墳石室。[埼玉県行田市]

もう少しアップ。。。
良く見えませんネ(汗、、、

しかし、この石室は凄かったっ!
案内板からどうぞっ★


八幡山古墳石室。[埼玉県行田市]

=== 案内板より ===
八幡山古墳石室
八幡山古墳は、この周辺に広がる若小玉古墳群の中心となる古墳のひとつで、
7世紀前半につくられた直径80mの大型の円墳と推定されています。
昭和9年に約2km東にあった小針沼埋め立てのために古墳を崩した際に
石室が現れ、翌年には発掘調査が行われて、前・中・後室の3室からなる
全長16.7mの巨大な石室であることが明らかになりました。
その後、昭和52~54年に発掘調査と復元整備が行われて現在の姿に
なっています。


八幡山古墳石室。[埼玉県行田市]

発掘調査では最高級の棺である漆塗木棺の破片や銅鋺など
豪華な遺物が発見されており、この古墳に葬られていた人物が
かなりの権力者であったと考えられることから、この古墳を「聖徳太子伝暦」に
登場する武蔵国造物部連兄麿の墓と推測する説もあります。

なお、この石室は奈良の石舞台にひってきする巨大な石室であることから、
「関東の石舞台」とも呼ばれています。
云々。。。


なんと!武蔵国造物部連兄麿さんのお墓ですかっ!?
乾漆棺の破片も発見されていると言いますし、
ただ者ではありませんっ。ウムム。。。

乾漆棺・・・ごく一部の終末期古墳にみられ、
当時最高級の棺として貴人の葬送に用いられたと考えられる。云々。。。
と、ウェキペティアでは紹介されています。

こちらの古墳は若小玉古墳群の中の一つ。
若小玉古墳群も併せてどうぞ。。。


八幡山古墳石室。[埼玉県行田市]

===
北大竹遺跡(若小玉古墳群)
北大竹遺跡は、行田市富士見工業団地北東側とその周辺に広がる
古墳時代~平安時代の集落遺跡・古墳群です。


八幡山古墳石室。[埼玉県行田市]

また本遺跡の古墳と、近接する埼玉県指定史跡地蔵塚古墳及び八幡山古墳、
北西側の中村遺跡の古墳、南東側の南大竹遺跡の古墳など、
長野落北岸沿いに連なる古墳によって、若小玉古墳群が形成されています。


八幡山古墳石室。[埼玉県行田市]

本遺跡と若小玉古墳群については、これまでに30回ちかい発掘調査が行われ、
約230軒の竪穴住居跡、約60基の古墳跡などが検出されています。
そして本遺跡が古墳時代~平安時代の行田市を代表する
大規模な拠点的集落遺跡であること、若小玉古墳群が市内では
埼玉古墳群に次ぐ規模の重要な古墳群であることなどが明らかになっています。


八幡山古墳石室。[埼玉県行田市]

古墳時代の集落の展開
北大竹遺跡からは、旧石器時代の石器や縄文土器なども
極少量出土していますが、本格的に人々が生活を営むようになるのは、
古墳時代前期(4世紀後半頃)からと思われます。
この時期に遺跡南東部に、方形に地面を堀りくぼめた半地下式の
竪穴住居が建てられ、集落が営まれ始めます。


八幡山古墳石室。[埼玉県行田市]

行田市内ではこの時期に水田開発が進み、各地で小規模な集落が
営まれるようになります。この集落もそうした集落のひとつであったのかも知れません。
しかしながらこの集落は短期間に発展し、まもなく遺跡南半部に大規模な集落が
展開するようになります。
この当時は、本遺跡と若小玉古墳群が広がる長野落北側は、少し高い丘になっていて、
その丘の南側には谷が複雑に入り込んで、所々に湿地などが形成されていたようです。
集落はその谷に面した尾根状の丘の上に広く展開して行ったのです。


八幡山古墳石室。[埼玉県行田市]
古墳時代前期の竪穴住居の土器

ところが古墳時代中期(5世紀)になると、それまで広範囲に展開していた集落が、
次第に集約されて遺跡北東側の比較的狭い範囲に、
密集して展開するようになって行きます。この時期には気候が寒冷化し、
水利環境が悪化したと考えられており、人々は集住し、協力してこの気候の変化を
乗り越えようとしたものと思われます。


八幡山古墳石室。[埼玉県行田市]
古墳時代中期の竪穴住居の土器

若小玉古墳群の築造
埼玉古墳群の築造が始まる古墳時代後期初頭(5世紀末頃)に、本遺跡南東部にも
埴輪をたてた小型の円墳が築かれ、若小玉古墳群の築造が始まります。
若小玉古墳群は、墳径20m以下の小型の円墳を中心とする多数の古墳が、
密集して築かれている古墳群ですが、後期前半(6世紀前半)になると墳長約70mと推定される
大型前方後円墳の三方塚(三宝塚)古墳が、遺跡北東側に築かれます。


八幡山古墳石室。[埼玉県行田市]
古墳時代中期の竪穴住居の土器

この場所には、前期より古墳築造直前まで集落が継続して営まれていましたが、
古墳は集落をすぐ東側に追いやって築かれています。
間もなくその東側にも小型の円墳が築かれ始め、集落は更に北側へと追いやられています。
狭い台地上に古墳を築くために集落が追いやられた結果、この時期以降集落は
より狭い範囲に密集して営まれるようになります。


八幡山古墳石室。[埼玉県行田市]
人物埴輪出土状況

同じ頃、三方塚古墳に続く古墳群の盟主的な大型前方後円墳である愛宕山古墳が、
本遺跡の範囲を超えた南西側に築造されるようです。
さらに後期中葉(6世紀後半)になると古墳群は長野落北岸の台地上の南西両方向に
大きく広がり、中村遺跡、南大竹遺跡にも古墳が築かれて行きます。


八幡山古墳石室。[埼玉県行田市]
古墳時代~平安時代の集落の発掘調査状況

続く後期後半(7世紀前半)になると、“関東の石舞台”と呼ばれる巨大な石室を持つ
八幡山古墳が築かれますが、後期末(7世紀中葉頃)に東日本最古の線刻壁画が描かれた
地蔵塚古墳が築かれたのを最後に、若小玉古墳群の築造は終焉を迎えます。


八幡山古墳石室。[埼玉県行田市]

奈良~平安時代の集落
若小玉古墳群築造のため、古墳時代後期前半(6世紀前半)に遺跡北東部の
比較的狭い範囲に追いやられた集落は、古墳群の築造終了後も同じ範囲に
繰り返し竪穴住居等が密集して建てられ、奈良時代(8世紀)をへて平安時代前期
(9~10世紀)まで連綿と大規模な集落が営まれて行きます。


八幡山古墳石室。[埼玉県行田市]

この集落からは、近畿地方の影響を受けた奈良時代初頭の土器なども出土しており、
律令体制下の地域の拠点的な大規模集落であったと思われます。
永く続いたこの集落も、平安時代前期後半(10世紀)になると急速に衰退し、
消滅してしまいます。
律令体制が破綻し、地震などの自然災害も重なって治安が悪化、人々が離散して
集落は終焉を迎えたと思われます。
云々。。。


いやいやいやいや~、ホントすごいっ。
ホント、良いものを拝見できましたっ★
しかししかし、勿体ないっ~(汗、、、
こんなに素晴らしい史跡、もっと宣伝して、みんなに知ってもらったら良いのになー。
勿体ない、勿体ないっ。。。

というわけで、
もっと古墳が観たくなった1日でありました!
ごちそうさまですっ。



以前の古墳はこちらから。
矢抜神社。[太田市新田中江田町]
本郷古墳。[足利市]
以前の行田市はこちらから。
さきたま古墳公園。[埼玉県行田市]

【八幡山古墳石室】
@埼玉県行田市藤原町

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