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川俣宿の歴史。[邑楽郡明和町]

邑楽用水路沿いにある川俣事件の碑。
ここから真っすぐ、利根川に向かう1本道が
かつての「川俣宿」になります。


川俣宿の歴史。[邑楽郡明和町]

案内板がありました★


=== 案内板より ===
富士見の渡しと日光脇往還
川俣宿の歴史

川俣集落は、旧日光脇往還(現在の旧122号線)を挟んで、
両側に家並みが密集して形成されているが、これは江戸時代に宿場
(旅人の宿泊設備、荷物の運搬に要する人馬などを継ぎ立てる設備のある所)
であった名残である。
江戸時代には、利根川沿いに渡船場も船着場も存在し、日光脇往還の重要な
宿駅としてのみならず、利根川の渡津、利根川水運の河岸としても栄えた。


日光脇往還は、往古より奥州への行路として利用されていたが、
日光廟の建立に伴い江戸~日光の参詣道としても利用され「日光脇往還」と
呼称されるようになった。
この道路は、江戸日本橋~鴻巣迄は中山道と重なり、鴻巣より行田(忍)-
新郷-川俣-館林の4宿 を経由し佐野(天明)に至り、
佐野~日光迄は例幣使道と重複する。
このためこの4宿を含む鴻巣~佐野間を「日光脇往還」と称する場合もある。


川俣宿の歴史。[邑楽郡明和町]

日光脇往還を通行した主な人々は、次の通りである。
●徳川家康の遺骸の通行/元和3年(1617)3月28日、
駿河の久能山から日光に改装時
●日光火の番衆(八王子の千人同心)の通行/承応2年(1653)~幕末迄、
約50人ずつ、半年交代
●徳川御三家が、将軍の日光社参時に通行/少なくとも徳川家光の
寛永19年(1642)の社参時まで遡る

川俣宿は、古文書によれば、寛永20年(1643)頃には宿駅として成立していたもの
と推定される。
また元禄元年(1688)には助郷村として12ヶ村が指定され、
大名の通行時等の場合、 この村々が応援の人馬を負担したことが知られている。

川俣渡船場は、元和2年(1616)に、関東16渡津の1つに挙げられ、
渡船者の厳重な取締が行われるなど、 江戸防衛の拠点とされていた。
また渡船場から富士が美しく見え、庶民からは「富士見の渡し」と称されていた。

川俣河岸は、江戸初期より廼米(年貢米)や材木の津出し
(船による江戸への積出し)の拠点として機能し、 弘化3年(1846)においては、
館林領48ヶ村の内27ヶ村の年貢を扱っていたと記録されている。

以上のように江戸時代に繁栄を極めた川俣宿は、
明治40年(1907)の鉄道の開通により、 その役割を果たし、現在に至った。
云々。。。


川俣宿の歴史。[邑楽郡明和町]

旧川俣宿。
今はこんな感じです。
川俣事件の碑を見に来て、川俣宿のことも知りました。
なんてラッキー(笑

歴史にふれた今日であります (=゚ω゚)ノ



以前の記事はこちらから。
川俣事件衝突の地。[邑楽郡明和町]
大笹関所跡。[吾妻郡嬬恋村]

【川俣宿の案内板】
@群馬県邑楽郡明和町川俣

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