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福岡城跡。[福岡県福岡市]

ホテルの目の前にはお城がありますから!
自然と朝早くに目が覚めます (=゚ω゚)ノ
日の出とともにGO→
福岡城跡」でありますっ。


=== 案内板より ===
下之橋御門
福岡城は、福岡藩初代藩主黒田長政によって、
慶長6年(1601)から7年をかけて築かれました。
城内への門は、堀に架かる3つの橋、上之橋・下之橋・追廻橋にそれぞれあり、
このうち下之橋を渡って入る門がここ下之橋御門(下の橋大手門)です。


福岡城跡。[福岡県福岡市]

現在の門は文化2年(1805)に建てられましたが、
明治時代に上層部を失い、長く一層のままでした。
平成12年(2000)に不審火によって被災したため、復旧に向けた調査研究を行い、
同20年に二層櫓門として復原しました。


福岡城跡。[福岡県福岡市]
「明治時代初期頃の上之橋御門」

門の上層部は、部材に残る痕跡・発掘調査成果・絵図・文献資料などにより、
その規模、北側の下屋の様子、柱の立つ位置、外壁の漆喰壁などが
明らかになりました。
また直接の資料を欠く部分は、上之橋御門(上の橋大手門)の古写真や
本丸表御門(現・崇福寺山門)などを参考にしました。
この復原は専門家で構成する「福岡城跡建造物等復原整備検討委員会」で
検討されたものです。
これとは異なった復原案も提案されましたが、現段階でより蓋然性が高いと
判断された本案を採用しました。
云々。。。


福岡城跡。[福岡県福岡市]

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(伝)潮見櫓
福岡城に50近くあった櫓の1つです。大正初期に浜の町の黒田別邸に移築され、
昭和31年(1956)に再移築されました。
潮見櫓の本来の位置は、現在の位置ではなく三の丸北西角であり、
また、この建物は平成3年の調査の結果、潮見櫓ではなく、
城内の別の櫓であると考えられています。
云々。。。


福岡城跡。[福岡県福岡市]

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黒田如水隠居地(三ノ丸御鷹屋敷)跡
黒田官兵衛孝高(如水)[1546~1604]は、戦国時代の武将で、
筑前黒田藩の藩祖とされる。
はじめ赤松氏の一族で当時姫路の小寺氏に仕えたが、のちに羽柴秀吉に従い、
竹中半兵衛とともに秀吉の軍師として重きをなし、
中国、四国及び九州の平定の後はその軍功により豊前国六郡を封ぜられ、
同地に中津城を築いた。
長子長政に家督を譲った後には剃髪して隠居し、如水円清と号した。
如水の隠居後、関ガ原の役の功により、長政が筑前国十五郡(福岡県)を与えられ
筑前黒田藩の初代藩主となって福岡城を築いた後は、
如水もその晩年を福岡城で過ごした。
福岡黒田家に仕え、儒教・博物学者として著名な貝原益軒の書
「筑前国続風土記」の中に、「城内のいぬゐ(北西)に小高き山あり。
是又本丸より高かりしかば、山をならしてひきゝ(低い)岡とし、
如水公の兎裘(ときゅう)の宅地(隠居地)とせらる。」という記述のある
「三ノ丸御鷹屋敷」は現在のここ「ボタン・シャクヤク園」にあった。
云々。。。


早すぎて、まだ開いてませんっ(汗、、、


福岡城跡。[福岡県福岡市]

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旧母里太兵衛邸長屋門
筑前今様の「酒は飲め飲め」で知られる母里太兵衛(母里但馬守友信)は、
黒田二十四騎の一人で、福島正則から名槍日本号を飲み取った
豪傑として知られている。
黒田長政が筑前入国後、6つの支城の1つ大隈城主となったが、
慶長20年(1615)6月6日病没した。

現在の天神2丁目の野村證券株式会社の地は、母里太兵衛の当時の屋敷で、
この長屋門はそこに構えられていた。
武家屋敷長屋門として代表的なこの江戸時代の優れた建造物を
末永く保存していくため、昭和31年に県の文化財に指定され、
同40年にこの地に移築されたもので、今もなお往時の姿を伝えている。
云々。。。


福岡城跡。[福岡県福岡市]

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名島門(なじまもん)
この門は、天正15年(1587)小早川隆景が多々良川口の名島の陵端に築いた
名島城の脇門で、慶長年間(1596~1614)黒田長政が居城を名島城から福岡城に移すとき、
黒田24騎の一人である林掃部にさげ渡され、邸宅の門として使用されていたもので、
「名島ひけ」と呼ばれた名島城の数少ない遺構の一つです。

明治の中ごろ、長崎に移築されそうになったのを、当時の代議士平岡浩太郎氏によって
買い戻され、天神の自宅の門として使用されていましたが、戦後富士ビルの建設に伴い、
平岡浩氏(浩太郎氏の孫)によって現在地に移されたものです。
云々。。。


福岡城跡。[福岡県福岡市]

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舞鶴公園1300年の歩み
古代の外交拠点「鴻臚館(こうろかん)」
鴻臚館は、平安時代に設置された外交のための迎賓館です。
「鴻」は「大きい」、「臚」は「告げる」、つまり「鴻臚」は外交使節の来訪を告げる声
を意味します。

海(那の津)に面していたこの地には、奈良時代以前より「筑紫館」と呼ばれる
外交使節があったことがわかっており、現在も発掘作業が進行中です。
鴻臚館跡展示館では、発掘された遺構や出土品を展示しています。
云々。。。


福岡城跡。[福岡県福岡市]

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三の丸(松ノ木坂)
福岡城は初代福岡藩主・黒田長政が、慶長6年(1601)から7年がかりで築城しました。
ほぼ現在の舞鶴公園にあたる内郭は天守台、本丸、二の丸、三の丸の4層に分かれ、
潮見櫓、多聞櫓、花見櫓をはじめとする47もの櫓がありました。

城内の建物や石垣は、火災による焼失や自然災害による崩壊などによって
しばしば修復が行われたほか、江戸期を通じて若干の改変がありましたが、
築城当初の縄張りに大きな変化はなかったようで、
内郭部分41万㎡(福岡ドーム6個分)の広さを誇った雄大さを今も感じることができます。
城下の武家屋敷まで含めると246万㎡(福岡ドーム35個分)もの広さをもつ、
日本有数の広大な城です。

現在地は三の丸の「松ノ木坂御門跡」へ続く入口にあたり、
ここから二の丸、本丸、天守台へと城内を登っていくルートのひとつでした。
ここ三の丸には、藩主を支える家老たちの屋敷群がありました。
云々。。。


福岡城跡。[福岡県福岡市]

「大組櫓跡」。


福岡城跡。[福岡県福岡市]

「松原櫓跡」。


福岡城跡。[福岡県福岡市]

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ニの丸(ニの丸御殿・水の手・お綱門)
福岡城の二の丸は、大きく「二の丸」、「東二の丸」、「南二の丸」に分かれ
現在地は東二の丸にあたります。
現在は運動場(ラグビー場)になっている北側まで石垣があって、
「二の丸御殿」が建っていたようです。その南側は貯水池となる「水の手」でした。
「東二の丸」から扇坂を抜けると、現在は梅の名所として知られる「二の丸」へと続きます。
この扇坂の近辺に「お綱門」と呼ばれる門がありました
(扇坂御門か東御門か異なる門であるかは諸説あります)。
柱に触れただけで熱病に冒されたり、夜中にうなされたりするといわれたその門には、
恐ろしくも哀れな話が語り伝えられています。


fukuokajo-14.jpg

寛永の頃、福岡藩二代藩主・黒田忠之は参勤交代の帰りに大阪で遊び、
采女(うねめ)という芸者を連れ帰りました。しかし、家老にいさめられて、
お側役の浅野四郎左衛門に預けることに。
浅野にはお綱という妻と幼い2人の子どもがいましたが、采女に心を奪われた浅野は、
妻子を顧みなくなってしまいました。
簀子町の本宅に采女を住まわせ、お綱と子どもたちを箱崎の下屋敷に別居させて、
はじめはしていた月々の仕送りもだんだんとしなくなりました。
貧しい生活にやきもきしたお綱は「せめて娘の4歳のひな祭りには何か支度を」と
本宅に下男を送ります。ところが、出てきた采女にけんもほろろに追い返され、
下男はお綱に申し訳ないと思い、箱崎松原で自害しました。


福岡城跡。[福岡県福岡市]

これを知って、お綱は狂乱します。2人の愛児を刺し殺し、なぎなたを携え
浅野家に走りますが、夫は登城していて留守。逆に、屋敷にいた浪人の
明石彦五郎に切りつけられてしまいました。それでもせめて一太刀と、
お綱は髪を振り乱し、血に染まった体をなぎなたで支えながら、夫のいるお城へ。
しかし、城門にたどり着くと同時に、門に手をかけたまま息絶えたといいます。

この門がお綱門と呼ばれ、後に、浅野の本宅跡に建てられた長宮院に移されました。
当院は福岡大空襲で消失し、その跡地は現在、家庭裁判所になっています。
云々。。。


あちこちにある案内板(笑
見所満載なのはウレシイのですが、いやー、広いです(汗、、、

というわけで、
つづく。。。



以前の記事はこちらから。
橙 daidai。[福岡県福岡市]
以前のお城はこちらから。
水城mizuki跡。[福岡県大野城市]

【福岡城跡】
@福岡県福岡市中央区城内

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