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古河公方公園。[古河市]

前回に続きまして古河総合公園です。
古民家のすぐ隣に建つ「古河公方館跡の碑」。


=== 案内板より ===
史跡 古河公方館趾
(説明)
ここは旧御所沼につきでた半島の中ごろで、古河公方
足利成氏以来別館のあった趾で、鴻巣御所とも呼ばれていました。
成氏が鎌倉から古河に走ったのは康正元年(1455年)で、2年後の
長禄元年(1457年)には下河辺氏の築城した古河城を修復して
ここにうつりました。


古河公方公園。[古河市]

それから後、古河公方成氏 政氏 高基 晴氏 義氏に至る
120余年の間古河は関東一円に重要な位置を占めていました。
ここにあった館も義氏の一人娘氏姫までありましたが、
古河公方の城趾が大正初期に渡良瀬川改修工事のため
大部分河敷となり、この鴻巣御所趾は往時をしのぶ史跡として
意義深いものがあります。
この碑の西と東には、当時の空ぼりと土塁をとどめています。
云々。。。


古河公方公園。[古河市]

昔の堀の跡。
今は通路になっています。

通路をはさんで、古河公方館跡の碑は右手にあります。
左に行くと。。。


古河公方公園。[古河市]

公方様の森です。
さらに先に進むと天神橋に至ります。


古河公方公園。[古河市]

そして御所沼。
この沼に囲まれるように、御所はありました。


古河公方公園。[古河市]

しかし、広ぉ~い公園です。
こちらの徳源院というお寺さんがあった場所までも、
ナニゲに歩きます(汗、、、
息が切れるのは日頃の運動不足の賜物ですね(汗、(汗、(汗、、、

徳源院跡には、古河公方・足利義氏さんのお墓があります。
足利にある法楽寺を建立した足利義氏さんと同じ名前です。


===
史跡 古河公方足利義氏墓所
古河公方5代目の義氏は天正10年(1582)12月古河城で没した
戦乱の中葬儀は翌年正月久喜(埼玉県)の甘棠院で行われ
その近くに香雲院という寺も建てられたが今は残存しない。


古河公方公園。[古河市]
「公方足利義氏の墓」と「足利義親の石塔」。

この墓所は義氏ゆかりの寺があった関係で遺骸ないし
その一部が埋められたものと考えられる


古河公方公園。[古河市]
「足利氏女の石塔(左)」と「古河公方義氏公墳墓 標石」。

明治初年までは、鎌倉円覚寺末の徳源院という
義氏の娘氏女の法号に因んだ寺があったので「徳源院跡」と呼ばれている
義氏の墓石はないが、氏女とその子義親(天寿院殿)の宝筐印塔
七地蔵を刻んだ石幢子孫の足利氏による「古河公方義氏公墳墓」の碑がある
云々。。。


最後の古河公方、5代目・足利義氏さん。
義氏さんの時代には、北条氏の力が強かったようです。


古河公方公園。[古河市]

徳源院跡の前にある「公園桃林」。


===
古河総合公園桃林の由来
江戸時代のはじめ、徳川幕府の要職にあった土井利勝が
古河藩16万石を拝領した頃、領内で薪が不足していました。
そこで江戸藩邸にいた利勝は一計を案じ、江戸市中の子供たちに
桃の種を集めさせ、それを俵に詰めて古河に送り、野畑や農家の屋敷周りに
植えさせました。
桃は成長が早く、枝は薪になったといわれます。
江戸時代後期の絵画には、古河城東方に桃林が描かれ、
古河藩士も春には家族で桃見物に訪れていることが知られています。

明治末年からは、地元の実業協会により盛大な観桃会が催され、
町内外から多くの人々が集うようになりました。

その後、大正期に発生した炭素病により桃林は壊滅してしまいましたが、
昭和50年に開園した古河総合公園には故事に習い桃林が復活、
今日に至っています。
25ヘクタールの園内には、5種類の花桃が桃源郷のように咲き誇り、
3月下旬から4月中旬まで訪れる人々を楽しませています。
云々。。。


ヒジョーに興味深い関東の戦国時代。
室町幕府からの関東足利家の歴史は、
古河から喜連川へ移って行きます。。。

また来よう、また来てみたい、
古河エリア。。。
もう少し見て回りたいエリアであります。



関連記事はこちらから。
足利家歴代の墓所。 [龍光寺*さくら市]
以前の記事はこちらから。
古河総合公園の古民家。[茨城県古河市]

【古河公方館跡の碑】
@茨城県古河市鴻巣

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