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金山城跡。[太田市]

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史跡金山城跡
太田市のシンボルである金山に築かれた金山城は、文明元年(1469)から
天正18年(1590)まで「難攻不落」を誇った名城です。
昭和9年(1934)に県内で初めて城跡として国の史跡指定を受けました。
平成6年(1994)からスタートした史跡金山城跡環境整備事業では、
発掘調査結果に基づいて、敵を“惑わす”複雑な「通路携帯」の復元を
目指した整備を行っています。
復元された戦国時代の通路を歩きながら、当時の山城の状況に思いをはせて
みてください。また、道路周辺で発見された、中世における
関東の山城ではきわめて珍しい「石垣」の復元整備も行っています。


金山城跡。[太田市]

平成13年(2001)には、物見台から日ノ池までの1.4haの範囲における
第1期整備事業が完成しました。天守閣のある城とは違う雰囲気を持つ
『石垣の山城』金山城跡を、どうぞごゆっくりご覧ください。
云々。。。


というわけでやって参りました、
太田市にある「金山城跡」。
前回ゆっくり散策できなかったのでリベンジですっ。
でもそろそろ夕方。イノシシ出ないかなぁ (((;゚Д゚)))))


金山城跡。[太田市]

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西矢倉台西堀切
西矢倉台西堀切は、西城から実城(みじょう・本丸)までの間にある
4つの堀切のうち、一番西寄りにある堀切です。
この堀切は他と異なり、堀底に石を敷いて通路として利用しており、
通路の先は桟道(急斜面に沿ってかけられる通路)へと続いています。
また、通路の北側には柱穴(柱を支えるために掘られた穴)があり、
敵兵の北側からの侵入を防ぐための柵があったと考えられます。

堀切の西脇には、堀切を掘り下げる際に出た土や石を土塁状に盛り上げ、
堀切内を敵兵から「隠す」ための工夫がなされていたようです。
また、土塁状の高まりの下から通路の縁石が見つかり、堀切内の通路よりも
古い通路があったことがわかりました。
古い時期には、桟道から西へ通路が延びていたようです。
云々。。。


金山城跡。[太田市]

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西矢倉台下堀切
西矢倉台下堀切 は、西矢倉台の西下に造られた防御施設で、
西城から実城へ向かう間の2番目の「堀切」となります。
この堀切は、大堀切、物見台下堀切と比べて規模は小さく、
堀切は実城に近づくにつれ幅が広く、深く造られています。
断面の形は、上部が逆「ハ」の字であるのに対して、下部は箱状(凹)に掘られ、
簡単に攻め登られないように工夫されています。
また、この堀切は西矢倉台西堀切のように通路として使われた跡はありません。
堀切北端を横断する通路は、埋まってしまった堀切の上を整備した園路で、
当時の通路ではありません。
堀切は北までずっと続いており、今みなさんが立っている足元の
約1.5m下が堀底となっています。
云々。。。


金山城跡。[太田市]

金山城跡。[太田市]

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馬場下通路
物見台下土橋から竪堀までの間には石敷きの通路が発見されました。
この通路は防御上、土橋から見通せないように曲がった通路となっています。
通路は、竪堀にかかる木橋方面と、堀底へ下りる階段へ分岐しています。
石敷き通路の南側には、谷側からの敵に備えて通路を隠すと共に、
敵を威圧するための土塁石垣が通路に沿って約22m設けられていました。
なお、土塁石垣の中央部は、石垣の崩れた状態で整備しています。
云々。。。


金山城跡。[太田市]

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馬場曲輪
物見台から、東へ向かう通路は、北斜面際の石敷通路を経て、
馬場曲輪へと至ります。
馬場曲輪の調査では、岩盤を刳り貫いた柱穴が240個以上見つかり、
位置関係から建物や柵列があったことがわかりました。


金山城跡。[太田市]

また、建物は少なくとも5回の建て替え、曲輪の生活面は3回の造成があり、
頻繁に造り替えを行っていたことも明らかになりました。
廃城時期の馬場曲輪における、建物3棟のうち両側の2棟は平面表示としました。
また、中央の1棟は柱穴の位置を利用して、新たに四阿(あずまや)を建てました。
そのほか、曲輪の中央部分に石組み排水路、曲輪全体を囲む柵列の存在も
明らかとなり、あわせて整備しました。
云々。。。


金山城跡。[太田市]

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月ノ池
発掘調査前の月ノ池は、汚泥が堆積する窪地状の池でしたが、調査の結果、
月ノ池も日ノ池と同様に上下2段の石垣で囲まれた戦国時代の池だったことが
明らかになりました。
下段の石垣は、石敷き平坦面から約2m下に積まれており、その内側からは、
加工された建築部材や石垣の石が多量に投げ込まれた状況が見つかりました。
なお、この石垣については、最上部以外、戦国時代の石垣をそのまま残して
整備しました。


金山城跡。[太田市]
こちらは「日ノ池」。

月ノ池の底は、粘土層になっており、谷斜面からの表流水や浸透水が
溜まるようになっていたことがわかりました。
また、月ノ池は谷地形を利用して造られているため、一段の石垣だけでは
集中豪雨時に水があふれたと考えられます。


金山城跡。[太田市]

そのため、水があふれないように、かつ水をより多く蓄えられるように、
池の中心を東に移動させ上下二段の石垣に改修したものと考えられます。
云々。。。


金山城跡。[太田市]

月の池の近くでは、発掘調査が行われていました。
徐々に復元されていくのかなー。
楽しみ♪


金山城跡。[太田市]

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本城西端
西城より本城に至る迄に尾根に2ヶ所の堀切、3ヶ所の郭を構えて防御してある。
此処にある矢倉台は長手口と太田口とを見張れる高所であり、東に続く尾根は
多門台の役目を果たしている。
更に尾根から山腹にかけて堀切を構え大手口枡形上に郭2ヶ所が造られている。
云々。。。


金山城跡。[太田市]

と、見て回ったところで撤収~★
日も傾いてきましたし、イノシシ出たら怖いですからー。
また日を改めて来てみよう。


=== リーフレットより ===
金山城の歴史
金山城は、文明元年(1469)に新田一族の岩松家純によって築城され、
下剋上によって城主となった由良氏の時代に全盛を迎えます。
上杉謙信や武田勝頼などの有力戦国大名から10数回に及ぶ攻撃を受けますが、
金山城は一度も落城することなく、その堅固さを誇りました。
しかし、小田原北条氏の謀略に落ちて支配下となっていた天正18年(1590)、
豊臣秀吉の北条氏征伐により金山城は廃城となりました。
云々。。。



以前の記事はこちらから。
金山城跡、本城大手口。[太田市]

【金山城跡】
@群馬県太田市金山町

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