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仙巌園。[鹿児島県鹿児島市]

鶴嶺神社に続いてやって参りました。
鹿児島の名称「仙巌園 sengan-en」です。


=== 案内板より ===
大名庭園「仙巌園」と近代化の拠点「集成館」
大名庭園「仙巌園」の魅力
仙巌園は第19代島津光久によって万治元年(1658年)に造られました。
歴代当主の別邸として機能し、雄大な桜島を背景とする庭園や錫門、
御殿、望嶽楼などが大名家の暮らしを今に伝えています。

近代化の拠点「集成館」
幕末の嘉永4年(1851年)に始まった秀英館事業は国を守り
産業を発展させ、日本を強く豊かな国にするためのものでした。
ここには旧集成館機械工場や反射炉跡など、日本近代化の出発点となった
遺産群が残されています。
云々。。。


仙巌園。[鹿児島県鹿児島市]

というわけで、入り口近く、
先ず目を引くのが大きな大砲です。
これぞ「鉄製150ポンド砲」!


=== 案内板より ===
西欧列強が東アジアに進出した19世紀、28代島津斉彬は防衛のために
西洋式の反射炉や熔鉱炉、鑽開台を建設し、鉄製大砲を建設しました。
斉彬の側近、市来四郎は、薩摩藩は安政4(1857)年に鉄製150ポンド砲の
製造に成功したと記しています。
文久3(1863)年、薩英戦争の時、鹿児島城下には2門の150ポンド砲があり、
威力を発揮しました。
云々。。。


仙巌園。[鹿児島県鹿児島市]

===
反射炉の建設と集成館の設置
アヘン戦争で中国がイギリスに敗れたという情報は、
島津斉彬に大きな衝撃を与えました。
嘉永4年(1851)、薩摩藩主となった斉彬は、日本が西欧諸国の
植民地にされるのではないかという危機感を抱き、
海洋に多くの領地を有する薩摩藩こそ、「大砲と船」に象徴される軍備の近代化と
産業育成に力を注ぐべきだと考えました。

反射炉は鉄製の大砲を鋳造するために築かれたもので、嘉永5年に着工し、
安政3年(1856)ようやく鉄製砲の鋳造に成功しました。
また反射炉を中心に溶鉱炉やガラス工場など様々な工場が整備され、
これらの工場群は「集成館」と命名されました。


仙巌園。[鹿児島県鹿児島市]

生麦事件に端を発した文久3年(1863)の薩英戦争では、イギリス艦隊7隻を相手に、
ここで造られた大砲が大活躍しましたが、その後解体され、
現在は基礎部分だけがのこされています。
云々。。。



===
集成館事業と反射炉跡
石垣は、大砲を鋳造するための反射炉の基礎部分です。
ここには耐火煉瓦を使って西洋式の反射炉が築かれていました。
欧米列強の艦船から国を守るには大型のカノン砲を並べた砲台要塞が必要である
と考えた薩摩藩は、オランダ人ヒュゲニンの図面を頼りに自力で反射炉建設に着手。


仙巌園。[鹿児島県鹿児島市]

反射炉はドーム型の炉の天井で炎を反射させた強い熱で鉄を溶かし、
大砲の鋳型に流し込む施設です。
従来の石工技術で切石を組み、薩摩焼の技術で耐火煉瓦を焼き、
炉の材料としました。
1号炉は失敗に終わりますが、完成した2号炉で大砲を製造しました。
云々。。。


仙巌園。[鹿児島県鹿児島市]
「鹿児島城内(明治5年撮影 尚古集成館蔵)」。

===
鹿児島城と集成館事業
幕末、鹿児島城は、さまざまな科学実験の場としてもちいられました。
ここでは、反射炉の模型を作ったり、さまざまな酸(硫酸や塩酸など)
をもちいた研究、金銀メッキ、そして電信の実験などが行われたりしました。
電信につかった電線は、お隣の博物館・尚古集成館に保管してあります。


仙巌園。[鹿児島県鹿児島市]

薩摩藩の近代化は、たくさんの洋書を翻訳し、それをもとに鹿児島城内の
実験施設「精錬所(島津斉彬がのちに開物館と改称)」で研究、実験。
そのなかで成功したものを、ここ磯地区にあった工場群・集成館で
実用化していきました。
昨年、世界遺産として世界に認められた「集成館」の事業は、
まず鹿児島城内ではじめられたのです。
云々。。。


仙巌園。[鹿児島県鹿児島市]

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鹿児島城のシンボル御楼門
島津氏の居城であった鹿児島城の玄関口で、
城の顔ともいえる門です。
鹿児島城は、戦の時に防衛拠点とするための「上山城(城山)」を背にし、
そのふもとに館を築いたものです。
シラス台地特有の切り立った崖を城壁として用いた、全国でもめずらしい
南九州独特の造りとなっています。
背後の山が鶴の舞う姿に似ていたことから、「鶴丸城」とも呼ばれました。

御楼門は二階建てで、大棟の両辺に鯱を置き、
壁は海鼠壁のしっくい仕上げという立派なものでした。
この門からの出入りは、琉球国王のお世継ぎ「中城王子」の来訪時など、
特別なときに限られていました。
云々。。。


仙巌園。[鹿児島県鹿児島市]

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近代薩摩焼発祥の地
極東の宝石といわれ、西欧諸国で「SATSUMA」と呼ばれて珍重された
近代薩摩焼はこの地で誕生した。
幕末の薩摩藩主島津斉彬は、西欧の近代産業を導入した工場群「集成館」を
この地に設置し、軍艦製造を中心としたさまざまな産業をおこした。
そして、その一環として、海外との積極的な貿易振興を目的に、
在来の薩摩焼の製法に改良を加え、貿易品としての近代薩摩焼を創製した。

斉彬はこの地に御庭窯を築き、多くの陶工たちとともに研究を重ね、
藩窯としての風格を備えた華麗な焼物を完成させている。
また、「SATSUMA」の名は、明治時代以後日本各地で製造され
海外に輸出された美しい陶器の総称にもなった。
云々。。。


仙巌園。[鹿児島県鹿児島市]

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石垣と薩摩焼の窯跡
幕末、この石垣のある辺りは海岸線でした。
石垣の上には28代島津斉彬によって設けられた薩摩焼の窯などが
建ち並んでいました。


仙巌園。[鹿児島県鹿児島市]

ここでは、金欄手と呼ばれる華麗な絵付を施した陶器のほか、
反射炉に用いられた耐火レンガも造られました。
斉彬時代に創出された金欄手は、19世紀末から20世紀初頭にかけて
海外で高い評価をうけました。
云々。。。


仙巌園に、日本近代化の礎を見たっ!
激動の時代を生きた人々のパワーを感じます★

ささっ、次回は御殿エリアへ。
その前に腹ごしらえかな?(笑



以前の記事はこちらから。
薩摩・島津家の磯御殿  鹿児島市★仙巌園 sengan-en
鶴嶺神社。tsurugane-jinja [鹿児島県]

【仙巌園】
@鹿児島県鹿児島市吉野町

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