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石田堤。[埼玉県行田市~鴻巣市]

豊臣秀吉さんの小田原征伐に関連する史跡。
埼玉県行田市にある「石田堤」です。
お城を囲む土塁のような、盛り上がった土盛りがそれであります。


=== 案内板より ===
石田堤
石田堤は、天正18年(1590)6月に石田三成率いる豊臣秀吉軍が
忍城水攻めの際に築いた堤で、後世になって“石田堤”と呼ばれるようになりました。
残念ながら現在堤は断片的に残るだけで、ここ行田市堤根の旧館林道沿いに残る
282mが、埼玉県指定史跡に指定されています。
まだ、忍川対岸の鴻巣市袋に残る300m程が鴻巣市指定史跡に指定されて、
石田堤史跡公園として整備されています。
それ以外にも行田市堤根地区ほかに点々と堤が残っています。


石田堤。[埼玉県行田市~鴻巣市]

石田堤の全体像については、大正2年(1913)に地元の郷土史家清水雪翁が、
実地踏査を行ない、地形や言い伝えから約14kmの堤を推定復元しています。
清水の説以外に、全長を28kmとする説や、堤は長大だったが、元荒川などの
河川の自然堤防を利用して築堤工事が行われ、実際に秀吉軍が築いたのは
4km程度だったとする説もあります。

石田堤については、行田市堤根と鴻巣市袋の計3地点で発掘調査が
行われていますが、3地点それぞれで堤の構築状況が異なっており、
地点ごとに地形に合わせた構築方法が採られていたものと推測されます。
また、発掘調査では2地点で堤の中から埴輪や土器などの破片が出土しており、
三成はこの地域に点在していた古墳を取り崩し、その土などを利用して
自然堤防を補強して繋ぎ、短期間で堤を築いていったと推測されます。
一説には三成は堤をわずか5日間で築いたとも言われていますが、
当時の記録から、忍城攻めが始まって約1ヶ月後の7月前半にも、
堤の補強等が行われていたことが伺えます。
突貫工事で築いた堤を、水攻めにしながら補強していたようです。


石田堤。[埼玉県行田市~鴻巣市]

このようにして築かれた堤に、荒川等から水を引き入れて
忍城水攻めが行われたようですが、水攻めの最中にも忍城周辺で
戦闘が行われた記録があることから、水攻めはさほど忍城に直接的なダメージを
与えられなかったようです。
それは地形的な要因から、引き入れた水が忍城付近ではなく、南側の堤根方面に
溜まってしまったからではないかと考えられています。


石田堤。[埼玉県行田市~鴻巣市]

水攻めに耐えていた忍城も、小田原城開城後の7月14日に開城し、
堤としての役割を終えた石田堤は、その後次第に取り崩されて
姿を消して行きました。
それを憂いた幕末の堤根村の名主増田五左衛門は、慶応2年(1866)に
石田堤の由緒を記した石田堤碑を建立し、堤を後世に残そうとしました。
その後地域で石田堤保存の活動が始まり、
地元堤根自治会で「石田堤を守る会」が結成されて、現在堤の除草・
清掃等の保存活動を行っています。
云々。。。


石田堤。[埼玉県行田市~鴻巣市]

===
石田堤と忍城水攻め
天正17年(1589)11月、天下統一を目指す豊臣秀吉は、小田原城を本拠とする
北条氏に宣戦布告し、関東の武力平定に乗り出しました。
秀吉は総勢24万とも言われる大軍を関東に派遣して、翌年4月には小田原城を包囲し、
北条氏の関東地方の諸城を攻め落として行きました。
そして6月の初めに石田三成に、2万の軍勢を率いて北条氏に従う忍城を攻めるよう
命じました。

三成の軍勢が忍城を攻めた時、忍城主成田氏長と弟の泰親は、将兵を率いて
小田原城に入っていて、城代成田泰季らが忍城の守りに当たっていました。
城内に周辺の領民が逃げ込み、城には雑兵・百姓・町人・女子供らも含めて
総勢2700人余りが入っていたと後世の「忍城戦記」には記されています。
6月7日には城代成田泰季が急死し、代わって息子の成田長親が城代になったと、
やはり後世の「成田記」には記されています。

三成は6月初旬頃に布陣して丸墓山の上に立ち、その地形から忍城を取り囲むように
堤を築いて利根川、荒川の水を引き込み、城を水攻めすることを決めたと伝えられています。
しかしながら、実際には秀吉の強い意向で水攻めは行われたと推測されます。

秀吉は6月20日に三成に宛てた書状で、三成から送られた堤の絵図面の内容を承諾する
とともに、水攻めを油断なく行うことを申し付けています。
また、途中から忍城攻めに加わった浅野長吉が、7月1日に皿尾口に攻め込み、
忍城方の兵30余りを討ち取り、それを秀吉に報告した際にも秀吉は、
「それより水攻めをしっかりやるように」と指示しています。
さらに秀吉は、7月6日に上杉景勝、前田利長らに、早々に忍城を向かい、
堤を丈夫にするよう申しつけています。
また、14・5日頃には岩付に向かうので、その際忍城を包囲している堤を見学するから、
普請を油断なく行うようにとも命じています。

このように秀吉は忍城を水攻めすることに固執していたのです。
長大な堤を築くことで、自らの権力を誇示したいと考えていたのかも知れません。

結果的に水攻めは、忍城に直接的なダメージを与えられず、「忍城戦記」「成田記」などの
後世の軍記物では、失敗したとされています。
対照的にこうした軍記物では、史実としては定かでない忍城方の奮戦が記されており、
それが伝説となって、語り継がれて行きました。
近年、忍城水攻めがいくつかの小説で題材として取り上げられ、映画化もされたことから、
石田堤と忍城水攻めに対する関心が高まっています。
云々。。。


石田堤。[埼玉県行田市~鴻巣市]

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石田堤の並木
天正18年年(1590)6月に石田三成率いる豊臣秀吉軍が忍城水攻めのために築いた
石田堤は、同年7月14日に忍城が開城するとその役割を終えましたが、
ここ堤根地区ではその後も堤は取り壊されずに残っていました。
江戸時代になり、徳川家康によって五街道の整備が始められ、その他の支路も脇往環として
整備が進められました。
堤根の石田堤堤沿いの館林道も中山道と日光例幣使街道を結ぶ日光脇往環として整備され、
堤の上には黒松が植えられて、街道沿いに松並木が形成されました。
松並木は、熱い夏には旅人に緑陰を与え、冬は吹きつける風や雪から旅人を守りました。
また、風雨や日差しから道そのものを守る役割も果たしていました。

明治時代以降も松並木は残され、昭和40年代には補植されて、新たに桜も植えられました。
残念ながら害虫の被害もあって、黒松は徐々に欠け、現在では江戸時代から残る松は
1本も無くなってしまいましたが、補植された松が育ち、
並木は今も往時の面影を留めています。
云々。。。


つづく。。。



【石田堤歴史の広場】
@埼玉県行田市堤根

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