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大井戸遺構と相良神社。[人吉市]

人吉城跡「ふるさと歴史の広場」です。
人吉城があった時代には、武家屋敷だった場所です。
ここにある地下室の遺構が「大井戸遺構」であります。


=== 案内板より ===
大井戸遺構(相良内蔵助・さがらくらのすけ屋敷の地下室)
1 発掘調査年度  平成13年度
2 調査主体者   人吉市教育委員会
3 遺構の名称   「大井戸遺構」(相良内蔵助屋敷の地下室)
4 構築の年代   江戸時代初期(慶長年間~寛永年間)
5 大きさ       東西5.4m、南北2.7m、深さ4mの石組。井戸の水深 約1.25m。
6 遺構の特長   人吉城跡では、井戸のある地下室が2つ発見されています。
6 遺構の特長   1つは「人吉城歴史館」の中庭にある地下室遺構で、2つ目は
6 遺構の特長   この大井戸遺構です。地下室遺構は、
6 遺構の特長   寛永17年の「お下の乱」を描いた人吉城絵図によれば、
6 遺構の特長   家老を務めた相良清兵衛の屋敷内にあった
6 遺構の特長   2階建ての「持仏堂」に、大井戸遺構は、その息子の
6 遺構の特長   内蔵助の屋敷内にある「蔵」と書かれた建物の位置に
6 遺構の特長   相当するようです。


大井戸遺構と相良神社。[人吉市]
「大井戸遺構の底に敷かれていたスギ板の様子」。

2つの地下室は、石段の降り口、踊り場、方形の大型の井戸、
黒色の小石敷、その下のスギ板敷きなど、構造が良く似ています。
江戸時代の初期に建造され、寛永17年(1640年)7月の「お下の乱」の直後に
破壊されて埋められていました。
特殊な目的のために造られた井戸と推定されますが、
全国では同様な遺構の発見例がなく、謎の多い遺構です。

今回、実物展示のため、石積みの復元修理を行い、上部に推定される
建物と同じ規模(6m×7m)の覆屋を建設し、休憩施設としました。
云々。。。


大井戸遺構と相良神社。[人吉市]

ささ、次へ参りましょう。


大井戸遺構と相良神社。[人吉市]

この辺りは「御館」と呼ばれているエリアです。
小さな神社さんと、


大井戸遺構と相良神社。[人吉市]

正面に「相良護国神社」があります。

===
史跡人吉城跡
人吉城は、鎌倉時代のはじめ、源頼朝の命を受け、
人吉庄の地頭として着任した近江国相良庄(現在の静岡県牧ノ原市相良)
を出身とする相良長頼により修築されたと伝えられる。
ただし山城としての本格的な築城は、
文明2(1470)年頃、12代当主相良為続の時である。


大井戸遺構と相良神社。[人吉市]

豊臣秀吉の九州統一後の天正17(1589)年、20代当主相良長毎が
豊後から石工を招き人吉城を石垣つくりの城として改修した。
慶長6(1601)年には本丸・二ノ丸・堀・櫓・御門まで完成し、
慶長12(1607)年から球磨川沿いの石垣を築き始め外曲輪が造られた。

寛永16(1639)年に石垣工事は中止されるが、
この時、近世人吉城がほとんど完成した。


大井戸遺構と相良神社。[人吉市]

人吉城は2度の大火があり、特に、文久2(1862)年の寅助火事では
城内の建物がほとんど焼失した。
翌年、御館(みたち)北側の石垣は「はね出し」という工法で
防火のために造られている。
この工法は、函館五稜郭、江戸湾台場など日本の城で数例みられる
西洋式の石垣である。

明治4(1871)年の廃藩置県の後、城内の建物は立木とともに払い下げられ、
石垣だけが残されていた。
云々。。。


大井戸遺構と相良神社。[人吉市]

以前にも来たことのある「人吉城」ですが、
記事にするのは今回が初めて。
お城も広いですし~、相良家の長い歴史もありますし~、
どこから書いて良いの~?、みたいな(汗、、、

でもでも、見れば見るほどに興味シンシンなわけです♪
つづく。。。



以前の記事はこちらから。
青井阿蘇神社。[熊本県人吉市]

【人吉城跡・相良護国神社】
@熊本県人吉市麓町

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