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尾曳稲荷神社。[館林市]

尾曳稲荷神社。[館林市] 尾曳稲荷神社。[館林市]

社殿までの参道には、ずらりずらり、
たくさんの「鳥居」が並びます。
館林市にある「尾曳稲荷神社」。
館林城築城にまつわる伝説を持つ神社さんですー。


尾曳稲荷神社。[館林市] 尾曳稲荷神社。[館林市] 尾曳稲荷神社。[館林市]

=== 案内板より ===
尾曳稲荷神社創建と由来
祭神 倉稲魂命
合祀祭神 誉田別命・素盞鳴命・倭建命
第百五代後奈良天皇の御世第十二代足利義晴将軍の時
天文元年(昭和51年から445年前)城主赤井照光の創祀にかゝる。


尾曳稲荷神社。[館林市] 尾曳稲荷神社。[館林市] 尾曳稲荷神社。[館林市]

大袋城主の赤井山城守照光は享禄元年正月舞木城主の許へ年賀の途中
子供が孤児を捕え殺そうとしているのを救ってやった処
その夜更一老翁が顕れて、子供の助かった礼をのべ
照光の居城大袋よりも館林が要害堅固の土地であると説き
明晩御案内申し上げようといいおわって姿を消した。
翌晩果して老狐が顕れ尾を曳て先導し字侍辺に始まり
字加法師に来て夜が明けた別れに臨み、もし築城完成の暁は
永く当城の守護神に使えよう私は稲荷の神使新左衛門である
と言い終り形を没した。
照光はこれに依って築城しその名も尾曳城と号し
城中に稲荷郭の一郭を設け社殿を造営し尾曳稲荷神社を奉祀した。
云々。。。


尾曳稲荷神社。[館林市]

「拝殿」です。


尾曳稲荷神社。[館林市]

「本殿」。うしろから。


尾曳稲荷神社。[館林市]

「演芸殿」。


尾曳稲荷神社。[館林市] 尾曳稲荷神社。[館林市]

尾曳稲荷神社。[館林市]

境内社もたくさんありました。
こちらの石祠の裏には、館林城・稲荷郭だった頃の名残、
土塁が残っています。


尾曳稲荷神社。[館林市]

「弁財天」。

===
市杵島比売命 花の尾曳弁財天
七福神は福徳を授ける神と古来より信仰され、インド・中国・
日本などの神々を組み併せた国際色豊かな福神です。
弁財天(妙音楽天)は人の汚れを払い、雄弁と財宝を授け、子孫を恵み、
又学問と技芸の神であり、琵琶はこの神の象徴である。


尾曳稲荷神社。[館林市]

その本源はインド神話の河川の神格化であり、
端穂国日本では水を司る神として信仰された。
河川は人間生活の基礎、白蛇はきれいな水と弁天様のシンボル
「弁天様だ、殺すなと母はとめ」(古川柳)
昔、境内と続いていた城沼はウルム氷期(約2万年前)台地を削った鶴生田川の浸蝕谷
古くは、この沼の浮島に祀られ、昭和3年江島神社から勧請
平成7年上屋新築神紋を授与された。
云々。。。


尾曳稲荷神社。[館林市]

最後の城主秋元家ゆかりの品も。


===
秋元康朝所用具足(卯花糸威金箔伊予札胴具足)
館林藩最後の城主秋元家に伝来したもので、2代秋元康朝(総社・谷村藩主)が所用し、
大阪夏の陣に着用したものと伝えられています。
兜の吹返し部分には秋元家紋(源氏車紋)が施されています。
また、胴は金箔小札を持つ桶川胴で、その腹と背に漆塗の日輪が描かれ、
腹には「八幡大菩薩」、背には「南無阿弥陀仏」と銀の文字で書かれています。

弘化2年(1845)の秋元家の館林入封以後は、館林城三の丸千貫門楼上に
安置されていたといわれ、明治の廃藩以後は、旧藩士たちによって瓜内稲荷神社の
御神体として祀られました。しかし、後年瓜内稲荷神社が尾曳稲荷神社に合祀されたため、
この具足も尾曳稲荷神社に奉納されました。
現在は館林第一資料館に保管されています。館林に残る数少ない藩主ゆかりの甲冑で、
戦国時代から江戸時代初期にかけての特色を示すものとして貴重な資料です。
云々。。。

他に、明治時代に描かれた「館林城絵馬」、「明治戊辰戦争磐城進撃絵馬」、
「明治戊辰戦争凱旋絵馬」の案内板もありました。


それにしても尾曳稲荷神社、館林城(尾曳城)の言い伝えはとてもユニーク。
興味シンシンなところであります♪
芸技殿の横に、創建にまつわる由来の案内があったので、
次回、ご紹介したいと思います。

つづく。。。



【尾曳稲荷神社】
@群馬県館林市尾曳町

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