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新田義興ゆかりの地と子方明神。[太田市]

太田市「長楽寺」さんの西側にある芝生公園。
その側を走る道路沿いに案内板を見つけました★

新田義貞さんの次男の方、新田義興(よしおき)さん関係です。
子方明神」であります。


=== 案内板より ===
新田義興ゆかりの地と子方明神(こかたみょうじん)
後方の円墳上にある石祠を子方明神と言い新田義興を
祀ると伝えている。

ここの近く総徳寺の旧寺域に接して父方神社、母方神社と呼ばれた
社があった。明治の初め八坂神社に合祀されたが、
祭神は新田義貞とその夫人であり、子方明神はその子義興と
伝えられている。

義興は南北朝時代の武将で、義貞の次子であり、
義貞の鎌倉攻めの際にはまだ幼少であった。
鎌倉幕府の滅亡によって始まった建武の天皇親政は
足利尊氏の謀反によって崩れ、南北両朝の対立が始まる。延元2年(1337)
義興は数え7才で父と同じく南朝の将として、上野武蔵の兵3万余を率いて
北畠顕家の軍に加わり、鎌倉の足利勢を攻略し、南朝の吉野に赴き、
御所で元服、後醍醐帝より義興という烏帽子名(えぼしな)を賜った。


新田義興ゆかりの地と子方明神。[太田市]

正平7年(1352)義興22才のとき、再び上野に兵を挙げ
北朝側と戦った。出発にあたって義興は長楽寺内での軍勢等の
乱入狼籍を禁じた「禁制」(国重文長楽寺文書として現存)を発している。
戦いは初め優勢で足利勢を破って鎌倉に入ったが、敵側の巻き返しに合い、
上野の山野に潜むこととなる。

正平13年(1358)、三度兵を挙げ武蔵野にゲリラ戦を展開するが、
足利方の策謀にあい、多摩川の矢口の渡しで自刃した。
弱冠28才であった。そのときの従者は世良田右馬之助はじめ13人だと
伝えられる。
云々。。。


雑草が生い茂り石祠を拝見できなかったのは残念。
父、義貞さんが亡くなった後も鎌倉の奪還を目指し、
最後まで戦った新田義興さんであります。。。



以前の新田さん関係はこちらから。
脇屋義助公居館跡。[太田市]

【子方明神】
@群馬県太田市世良田町

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