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太田市堀口町。
早川に架かる大きな橋。
その橋のたもと、土手のところに小さな案内板が建っています。


堀口館跡。[太田市]

さみしいかな、なんの遺構も残っていませんが、
この場所こそが、あの「堀口館跡」なのです!

最近ちょっとしたマイブームである新田義貞さん。。。

南北朝時代の頃、比叡山にて尊氏軍に包囲されてしまった後醍醐天皇一向。
しかし後醍醐天皇は、義貞に内緒で尊氏と和睦し、京都へ戻ろうとしました。
この時、新田軍の堀口貞満さんは、
「当家累年の忠義を捨てられ、京都に臨幸なさるべきにて候はば、
義貞始め一族五十余人の首をはねて、お出であるべし」と、
天皇に直訴します。。。


=== 案内板より ===
堀口館跡
上野国史によれば「堀口村、大舘宗氏の兄堀口次郎貞氏の居処、
その孫美濃守貞満、南朝に仕えて数々の戦功あり」とし、
村内に貞氏の居館があったことを示している。
貞氏については、それを家貞とし、大舘宗氏の叔父とする別説もあるが、
いずれも貞満をその孫としている点では一致している。


堀口館跡。[太田市]

ここには昭和43年まで正覚寺の不動堂と墓地があったが、
たび重なる水難(川欠)と堤防拡巾工事のため、浄蔵寺に合併した。
正覚寺は堀口貞満の創建と伝えられ、寺域には館跡の遺構が残されていた。

堀口郷は新田義兼が鎌倉幕府から元久2年(1205)に地頭職として
所領を安堵された、新田庄内12か郷の一つであり。
のち建保3年(1215)義兼後家により、
その孫岩松時兼に譲られた上堀口郷を除いては、代々新田宗家に伝えられ、
貞氏(家貞)がここに居住して堀口氏の祖となった。


堀口館跡。[太田市]

堀口地内からは、文永12年(1275)、建治2年(1276)、元弘3年(1333)、
建武3年(1336)記銘の板碑が出土している。

堀口貞満は、太平記によれば常に新田義貞の側近の武将として、
また軍を分ちては一方の大将として活躍した。
特に比叡山上にあって、後醍醐帝による新田方の扱いについて、
その人道に合わないことを詰り、帝をして翻意させ、
義節に殉じた一族132人、郎党士卒8000余人に代り
新田軍の面目を施すと共に義貞を宮方にとどめた功績、
とその勇気は高く評価されねばならない。
云々。。。


忠義を尽くしてきたにもかかわらず、
北陸へ下ることとなった新田軍。

う~ん、深いですっ。
歴史のドラマを感じずにはいられません。
しかし堀口貞満さんて、カッコイイなぁ。。。
堀口館跡を前に、しみじみと感慨深い今日であります。



以前の新田さん関係はこちらから。
生品神社。[埼玉県深谷市]

【堀口館跡】
@群馬県太田市堀口町

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