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二体地蔵塚。[太田市]

太田市世良田町にある小さな円墳。
古墳も時々行きますが、今回はこの古墳がお目当てではなくて
古墳の上に安置されている2つのお地蔵様にまつわるお話。
二体地蔵塚」です。


=== 案内板より ===
二体地蔵塚
世良田の東部から西北にあたる大字小角田にいたる地域は、
古墳群地帯で、数基の前方後円墳と多数の円墳があった。
これらを一括して世良田四十八塚と呼んだ。
明治時代に大部分は開発されて現在僅かに3基残るのみである。
二体地蔵塚はそのうちの1基で古墳時代後期の円墳である。


二体地蔵塚。[太田市]

元弘3年(1333)北条高時は西国(近畿地方)の乱を鎮めるため、
弟泰家を大将として、10万の兵を京都へ派遣することになった。
その戦費を調達する必要から、関東地方の国々から臨時の税金を取り立てた。


二体地蔵塚。[太田市]

特に、世良田には裕福な者が多いとして、出雲介親連と黒沼彦四郎入道の
二人が使者になって、多勢の家来を引きつれて乗込み、
5日のうちに6万貫の税金を差出せと強く要求した。
これを聞いた新田義貞は法に過ぎた仕打であると怒り、
直ちに家来に命じて出雲介を捕え、黒沼彦四郎の首をはねてさらし首にした。
即ちここがその遺跡である。


二体地蔵塚。[太田市]

この塚について次のような伝説がある。
昔、この塚の辺で毎夜人の争う異様な声が聞こえてくるので、
村人は恐れをなし、石地蔵像を建立して供養したところ、
その後怪しい声は止んだという。
もとは一体であったが、後に普門寺にあった一体の地蔵を移し二体とした。
その後、二体地蔵塚と呼ぶようになったのである。
云々。。。


二体地蔵塚。[太田市]

そしてもう一つ。
塚の正面にあった「五輪塔」です。


=== 案内碑より ===
五輪塔建立記
太平記10巻「新田小太郎義貞謀叛之事」に記載されている黒沼彦四郎(ひこしろう)入道
ならびに出雲介親連(ちかつら)入道は、この地において680年余の間、供養されている。

伝えられているところは、楠木正成等が「元弘の乱」を、南朝 後醍醐天皇の命により
国を鎮めるためにおこした。
それに対し、鎌倉幕府北条高時は、弟の北条泰家に10万騎におよぶ兵で、
畿内、西国の鎮圧を命じ、その軍費を関東諸国の荘園に要請をしたのである。
特にこの世良田は富裕な者が多くいたことから、北条氏縁者の出雲介親連入道と
佐位郡渕名荘(現伊勢崎市境渕名)政所の御内人黒沼彦四郎入道が相模入道(北条高時)
より強く命じられ、強引な要求をしたことから、世良田統轄の新田義貞は怒り、
出雲介親連入道を捕え、黒沼彦四郎入道の首を刎ねたのである。
その後、出雲介親連入道も没し、黒沼彦四郎入道と共に葬られた。
当時は小さな板碑が建立されていたが、その後二体の地蔵尊が安置され
永年にわたり敵味方を超え地元の人々に供養されてきた。

この地元の人々の供養する真心に触れ、「黒沼」という同姓の縁者が、
今まで供養されてきた地蔵尊はもとより、「敵味方供養塔」(怨親平等の佛教精神)
として、新たに五輪塔を二体の地蔵尊の傍らに建立し、太平の世を築くまでの
数多の悲劇を鑑み、現代、さらには未来永劫の世界平和を祈念したいという
願いから安置された。
云々。。。


お地蔵様のお話、五輪塔建立のお話。
歴史の中に語られていることが、
とても近くにあるような気がしました。
新田義貞さんが挙兵するに至る、一つのきっかけとなったお話です。。。



以前の記事はこちらから。
冠掛の松。[太田市]

【二体地蔵塚】
@群馬県太田市世良田町

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