ウワサのBECCAN。ブログbeccanです。グルメ、おサケな話、チマタの話題などなど。

2017/051234567891011121314151617181920212223242526272829302017/07

総持寺。[太田市]

新田荘遺跡に指定されている「総持寺」にやって参りました。
新田義貞さんのものと伝えられる木像を安置しているお寺さんです。


=== 案内板より ===
新田館跡(館の坊・総持寺)
当寺域は早川の東、高台の地を占める現在は1㏊余に過ぎないが、
往時はこれに数倍する地積を擁していた。
南と北に東西に走る濠の痕跡を残し、
昭和初頭までは土塁の残存を見ることができた。
西に早川をひかえ、周りに堀を巡らした豪族の館跡であることは明瞭である。

鎌倉時代の世良田は,新田の庄の経済的、文化的中心であったところからみて
新田宗家の館はここにあったと考えられる。
元弘3年(1333)北条高時は世良田に有徳の者多しとして莫大な軍資金を課し、
使者を派遣して無法な「譴責・けんせき」を加えた。
義貞は「わが館の辺を雑人の馬蹄にかけさせつることこそ無念なれ」と怒り、
これを捕らえて一人は世良田の里に梟首した(太平記)。
この「わが館」がここであろう。


総持寺。[太田市]

建久4年(1193)源頼朝が那須野・三原の狩の帰途遊覧した(吾妻鏡)新田館も
ここであると思われる。
威徳山陀羅尼院総持寺。真義真言宗豊山派。新田館の坊ともいう。
寺伝に新田義重、岩松に岩清水八幡を勧請、別当寺として真光寺を建て、
別に当地に護摩道場を建立した。
正平の頃、小俣鶏足寺尊慶の法弟慶範、世良田氏を開基とし右ニヶ寺と
当郷清泉寺とを合わせて一寺とし、慈猛の法流を伝えて開山第一世となた。
二世慶賢が今の名に改めたという。
明治以前は末寺三十六ヶ寺寺中寺院四ヶ寺あって
新田三檀林(学問所)の一つであった。
云々。。。


総持寺。[太田市]

===
総持寺の梵鐘
享保16年(1731)、当山21世法印快辨の代に、佐野天明の住人、
鋳工太田甚佐衛門藤原秀次によって作られた。
乳の間に乳が無く俗に「いぼなしの鐘」といわれ、
あまり類例をみない貴重な梵鐘です。

池の間には銘文が刻まれ又梵字の百字眞言が鋳出されており、乳の間には
金剛界五仏、撞座には胎蔵界五仏がそれぞれ梵字で鋳出されている。
金剛界は大日如来を智徳の面から、胎蔵界は同じく慈悲の面から開示したもので、
銘文によれば、大日如来の本質は、宇宙の根源をなすもので、想像することも、
言語に表すこともできないほどであるが、
仏の説く教えは梵字により、鐘聲により伝えられる。
鐘聲は、ありのままで、思慮分別が加えられていないから、
暁の鐘がいんいんと響きわたると、人々の耳が洗われ、心が洗われる、
この鐘聲のとどく所、ことごとく清らかな世界となる。
この一撞きによって、人々が等しく苦海から救われ、自然の恵みを受け、
豊かな社会が出現するとある。
この鐘楼は、弘化2年(1845)の世良田略絵図によれば、
現上町会館付近に位置されており、後ここに移築された。
往時は時鐘としても使用されてきたが、特に世良田祇園の宵祭りに
「屋台の引き下り」の合図に普門寺の梵鐘と呼応して撞かれた。
昭和61年7月24日町の文化財に指定される。
云々。。。


新田の館跡に建てられたと云う総持寺。
今回チョコチョコと、義貞さん関係の所を回ってみましたが、
整理するとこんな感じデス。

あまりに法外な税金の取り立てに怒り、幕府が遣わした使者の首を刎ねる。
二体地蔵塚。[太田市]

鎌倉幕府打倒のため挙兵。
新田氏ゆかりのIkushina-Jinja  太田市★生品神社

その出陣前、鎌倉方面へ向け矢を放ち吉凶を占う。
新田義貞公 矢止之松之碑。[太田市]

生品明神から進軍を開始。途中休憩の場所。
冠掛の松。[太田市]
義貞 駒つなぎの松。[太田市]

進軍途中、国境の敵情をうかがった場所。
物見の松と、あかがね街道。[太田市]


この後、八幡荘(高崎市付近)に入り、
信濃や越後の新田一族と合流したと云われています。
機会があったら行ってみョー。



【総持寺】
@群馬県太田市世良田町

コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する