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男女神社。nannyo-jinja [佐賀県佐賀市]

佐賀市にある「男女神社」、一之鳥居です。
ここからしばらく山の方へ上って行きます。


男女神社。nannyo-jinja [佐賀県佐賀市]

手前にある駐車場へ車を停め、
〝おぉ~っ、これだぁ。。。〟
ようやく男女神社ですっ。

この辺りは〝今山の合戦〟が繰り広げられた場所でもあり、
その合戦についての案内もありました★
〝佐賀の桶狭間〟とも云われる、スゴイ戦だったようです。。。


=== 案内板より ===
今山の合戦と男女神社
今山の合戦とは、戦国時代、豊後の国(大分県)の大名、大友宗麟と、
肥前の国(佐賀県)の大名、龍造寺隆信との合戦で、
龍造寺の家老の鍋島直茂侯(後の佐賀藩祖)が、この今山の地で、
大友6万の大軍に僅か700の兵で奇襲し、
総大将大友貞親(宗麟の弟、又は甥)を討ち取った戦いである。

当時この地は仏教繁栄の霊地で、男女神社は、東の谷に講堂棟、
西の谷に楼門を持つ大社であり、光明寺(男女神社南東約800メートルに位置し、
今は廃寺)の座主(最高位の僧侶)が、男女神社の神座を勤めていたが、
この戦いの日に戦火に焼かれ、宝物・古文書等は全て焼失する。


男女神社。nannyo-jinja [佐賀県佐賀市]

元亀元年、(1570)、大友6万の大軍に包囲された佐賀城は、
5千の兵力しか無く、軍評定で篭城や降伏論が飛び交う中、
鍋島直茂は奇襲(夜襲)を進言、無謀だと否定的だった龍造寺隆信も、
母の慶誾尼(けいぎんに)の激で奇襲を決行する事となる。

大友軍本陣は男女神社東の赤坂山中腹に布陣し、
8月20日(陽暦9月19日)を佐賀城総攻撃と定め、
その前日に勝利の前祝いの酒宴を開いた。

酒宴の情報を知った鍋島直茂は、午後6時頃、
佐賀城を僅か17騎で出発したが、近隣の武将達も次々に駆け付け、
今山に着く頃には7百余りの兵になり、地元の山伏達の協力を得、
男女神社の西側から谷伝いに山を登り、密かに大友軍の背後、
赤坂山裏側に潜伏する。


男女神社。nannyo-jinja [佐賀県佐賀市] 男女神社。nannyo-jinja [佐賀県佐賀市]
(写真はクリックで大きくなります。)

明朝7時頃、男女神社北東の大松(昭和30年頃迄存在)に掛けた鐘の合図で、
「寝返った者が出た」と虚報を流し、一斉に奇襲を敢行、
武具も付けず油断していた大友勢は大混乱に陥り、同士討ちを始めた軍中で、
総大将親貞主従3人は何とか混乱を脱したが、山伝いに逃れるところを、
首を挙げらてしまう。
総大将を討たれた大友軍は一瞬にして烏合の衆と化し、
2千余の兵を討たれて潰走、奇襲は大成功に終わった。

その時、鍋島勢は各々鬼面を冠り、鐘、太鼓を打ち鳴らして奇襲をかけた
と伝えられ、佐賀の郷土芸能の面浮流として現在も残っている。

男女神社は、承応3年(1654)佐賀初代藩主鍋島勝茂侯・小城藩祖鍋島元茂侯の
出資で再建、また鍋島元茂は、古戦場跡に正勝寺(平石に現存)を建立する。

大正15年(1926)佐賀で陸軍特別大演習が行われ、
御前講和で今山の合戦の講和がなされ、昭和6年(1931)
陸軍大学参謀演習にて、秩父宮雍仁親王殿下が、今山の合戦ご研究のため
この地に立たれ、前方の小円古墳の上に記念碑が建てられている。
云々。。。


神社さんにお参りする前に、
1つ歴史の勉強をしてしまいましたっ♪

では、
つづく。。。



以前の記事はこちらから。
船塚古墳。[佐賀県佐賀市]

【男女神社】
@佐賀県佐賀市大和町大字久留間

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