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名護屋城跡。その4 [佐賀県]

三ノ丸から本丸大手。そしていよいよですっ。
名護屋城・本丸跡」!

広い~っ!!


名護屋城跡。その4 [佐賀県]

ちょっとした球場くらいあるかな~?
とにかく広いですっ。感動★


名護屋城跡。その4 [佐賀県]

本丸跡、真ん中に建つ「名護屋城址」の石碑。


名護屋城跡。その4 [佐賀県]

そして海側に建つ句碑。

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太閤が 睨みし海の 霞かな  月斗
この句は、昭和8年(1933)に青木月斗(げっと・1879~1949)が
名護屋城を訪れた際に詠んだものです。
月斗は俳誌「同人」を主宰するなど、関西俳壇の重鎮として活躍し、
関西から九州まで幅広く足跡をしるし、佐賀にもしばしば足を運んでいます。
この句碑は昭和15年(1940)に月斗派の同人達によって建てられました。
云々。。。


名護屋城跡。その4 [佐賀県]

=== 案内より ===
本丸御殿跡の発掘調査・遺構整備
- 明らかになりつつある、秀吉の御殿の様子 -

名護屋城跡の本丸の発掘調査では、これまでに本丸大手の石段・門跡・
埋め込まれた旧石垣、全長56mに及ぶ長大な多聞櫓跡などが発見されています。
さらに、平成8年度の調査では、本丸中央部の南寄りの範囲から本丸御殿の一部と
推定される、約300畳敷の広さを持つ大型の建物が発見され、本丸全体に御殿跡が
良好に遺存している可能性が高まりました。

~中略~
豊臣秀吉の築城した城には、名護屋城のほか、大阪城・聚楽第(じゅらくだい)・
石垣山城・伏見城などがありますが、秀吉の御殿については、
その建物が残っていないのは勿論、遺構が発見された例も名護屋城だけです。
またその遺存状態も比較的良好なため、桃山時代の御殿建築を研究する上でも
全国的に注目されています。
云々。。。


名護屋城跡。その4 [佐賀県]

そしてそして、
名護屋城天主臺址」の石碑ですっ!!
ついに来たぁ~っ♪


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名護屋城跡 天守台
ここは名護屋城のシンボルである天守(閣)が建てられていた天守台です。
肥前名護屋城図屏風(佐賀県重要文化財)には5層7階建て(地上6階、地下1階)の
豪壮な建物が描かれており、その高さは石垣から約25~30mであったと
推定されています。

発掘調査では、天守の基礎となる礎石(柱の土台石)と地階部分にあたる「穴蔵」の
石垣、「穴蔵」への2ヶ所の出入口などが発見されています。
礎石は16個が現存しているほか、礎石の抜き跡が6ヶ所で確認されており、
不明の2個とあわせ、全部で24個の礎石が据えられていたと推定されています。
このうち、中央部分には心柱を支えた90cm程の礎石が4個置かれ、
さらに穴蔵の内面石垣に沿って60~80cm程の礎石が南北方向に7個、
東西方向に5個並んでおり、1階床下部分の梁を支える柱に伴うものと
考えられます。なお、穴蔵の床面は玉石を敷き並べた土間であったことが
わかりました。

天守は、江戸時代に入ってまもなく、この地が唐津藩に領有されるのに従い、
「破却」を受け、天守台の石垣までも壊されたものと推定されます。
江戸時代には、唐津藩によって古城を管理する「古城番」が城内に置かれますが、
天守台の発掘調査でも城番所に伴うと考えられる造成面や石列が
発見されています。


名護屋城跡。その4 [佐賀県]

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肥前名護屋城図屏風(部分)
肥前名護屋城図屏風(佐賀県重要文化財)では5層の瓦葺き屋根と千鳥破風、
漆喰塗り の白壁を持ち、最上階には火頭(かとう)窓と高欄を設ける
「望楼型」天守として描かれています。
外観は5階建てですが、4層と5層の間が2階に区切られさらに穴蔵を加えた
7階建ての構造でした。
云々。。。


名護屋城跡。その4 [佐賀県]

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肥前名護屋城図屏風に描かれた本丸御殿
「肥前名護屋城図屏風(名護屋城博物館蔵 佐賀県重要文化財)」は、
秀吉が在陣した文禄2年(1593年)夏頃の情景を当時描いたものと推定されています。
名護屋城の本丸御殿については、江戸時代の城郭建築にみられるような
指図(さしず: 設計図・平面図)などは全く残っておらず、名護屋城図屏風だけが
往時の御殿のようすを伝えています。この中では、本丸は大手門・北門などの門、
5箇所の櫓のほか、内部には本丸御殿に関連する建物が13棟程度、
密集して描かれています。絵の表現では大半の屋根が桧皮(ひわだ)葺きと推定され、
書院造風の格式の高い建物となっています。
また、右隅奥付近には数本の松が植えられ、庭園風の空間と
茅葺(かやぶき)数奇屋風の小さな建物もみられます。
云々。。。


名護屋城跡。その4 [佐賀県]

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本丸多聞櫓跡
本丸の西側と南側は、ある時期に築城時の石垣(旧石垣)をそのまま埋め込んで
新しい石垣(新石垣)を築き、大規模な拡張を行っていたことが明らかとなっています。
その本丸西側には、新たに多聞櫓とそれに続く南西隅櫓が建てられました。
多聞櫓とは長屋状に造られた櫓で、主に武器や食料の倉庫として使われました。
ここでは当時の礎石がほぼ1m間隔(6尺5寸を1間とした場合の半間)で南北に
長く並んでいる様子が発見されています。
云々。。。


名護屋城跡。その4 [佐賀県]

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本丸南西隅櫓跡
ここは本丸の南西隅にあたり、隅櫓の礎石が発見されています。
隅櫓は曲輪の隅部に配置された建物で、天守閣と同様に物見としての役割を持っていました。
発掘調査では、櫓の北壁と東壁にあたる礎石列の一部が確認されており、
全体の規模は南北約10m、東西約10mの広さで、二階建ての建物と想像されます。
また、この建物の南東部では隅櫓に付属する付櫓と思われる礎石列も発見されています。

隅櫓の「破却」
この南西隅櫓では、廃城に際し、建物を解体した後で礎石をそのまま放置するのではなく、
その上に厚さ30cm以上も盛土を行い、隅櫓のあった範囲を完全に埋め込んでいました。
整備にあたっては、この「破却」の状況をそのまま保存することとし、
盛土の範囲を赤色塗装によって示しています。
また、盛土に覆われて見えていない礎石については、その上面に疑似礎石を置いて
柱位置を示し、さらに界線によって建物範囲を表しています。
云々。。。


名護屋城跡。その4 [佐賀県]

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本丸新石垣櫓台
ここでは、本丸の拡張に伴って新たに造られた櫓の跡を発見しました。
この並んだ土台石の上に材木を横に置き、さらにその横木に柱を立てて
建物を組み立てていたようです。
馬場側の新石垣が破却のために壊されていますが、
建物の大きさは東西・南北ともに約6m(3間)と考えられます。また、
櫓の周囲の通路部分には、玉石も敷かれていました。
云々。。。


名護屋城跡。その4 [佐賀県] 名護屋城跡。その4 [佐賀県]

天守台の跡から見た眺め。
海です。


名護屋城跡。その4 [佐賀県]

名護屋城跡。その4 [佐賀県]

いやー、ウレシイなー。
名護屋城、ついに制覇っ!

初めて名護屋城を知った時は、いつか来てみたいと思ってました(涙。。。
しかし、こんな要塞みたいなお城をちゃっちゃと造ってしまうなんて、
豊臣秀吉さんの底力、恐るべし!です。


名護屋城跡。大手門 [佐賀県]

大手口の跡。
こちらがお城の正面入口です。

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大手口
大手口の概要
城の正面入口といわれており、ここから南に向かって唐津に通じる
「太閣道」と呼ぶ道がのびています。平成4年度の発掘調査で、
櫓台下の東側広場から掘立柱跡が見つかりました。また前面の石垣からは、
石垣改築の跡を見つけることができました。
云々。。。


名護屋城跡。大手門 [佐賀県]

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大手口前井戸
大手口前井戸の概要
この井戸は、東側に隣接する石敷き遺構と南東方向に延びる
2本の石組溝遺構を伴っています。
これは隣接する駐車場建設のための事前発掘調査で見つかりました。
城内にはこの他6箇所の井戸が残っています。
井戸の深さは約1.6mと浅いものの、地下水脈に重なっているのか、
調査後しばらくは水がわきだしていました。この井戸から、
朝鮮通宝や石臼、曲げ物などが見つかり、当時の生活を探る手がかりとなりました。
云々。。。


4回にわたる名護屋城の記事。
長々と書いてしまいスミマセン~っ(汗、、、
最後まで読んでいただいた方はありがとうございます。

また来よう、
また来てみたい名護屋城。。。
ウムム。。。



以前の記事はこちらから。
名護屋城跡。その3 [佐賀県]

【名護屋城跡】
@佐賀県唐津市鎮西町名護屋

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