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佐賀県立名護屋城博物館。[佐賀県]

福岡空港からまっしぐら。
タイムスケジュールが悲鳴をあげても、
どうしても来て見たかったのですっ。

「佐賀県立名護屋城博物館」んっ。
in 唐津市。


佐賀県立名護屋城博物館。[佐賀県]

「名護屋城跡」の前に建つ歴史博物館ですっ。

文禄・慶長の役、名護屋城に関する資料がテンコ盛り★
文禄・慶長の役は、1592年、全国を統一した豊臣秀吉が、この勢いで
明(min)まで征服しちゃうぞー、と、朝鮮半島から攻めて行った戦い。
名護屋城はその前線基地となったお城です。


佐賀県立名護屋城博物館。[佐賀県]

大昔、古墳時代までさかのぼる大陸との交流、
文化資料も多く展示されています。
わくわく♪


佐賀県立名護屋城博物館。[佐賀県]

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蒙古襲来絵詞(模本)
1274年・1281年の蒙古襲来の際の肥後国の御家人竹崎秀長の戦闘状況を
描いた「蒙古襲来絵詞」は、1890(明治23)年に熊本県の大矢野十郎氏が
皇室へ献上して御物となり、現在宮内庁に所蔵されている。
この原本は、現在上巻23m・下巻20mの2巻に調巻されている。
云々。。。


佐賀県立名護屋城博物館。[佐賀県] 佐賀県立名護屋城博物館。[佐賀県]
(写真はクリックで大きくなります。)

===
高麗金板経
観世音経を打ち出した、11枚の方形の金板が、蝶番によって連結されている。
朝鮮半島では統一新羅時代から高麗時代にかけて末法思想の影響で、
末法の世に正しい経典を伝えるために、石塔の下部に経典や仏舎利・仏具を
埋納する風習が流行しており、本資料も埋納されていたものと推定される。
朝鮮半島においても数少ない貴重な資料の一つで
韓国の益山王宮里石塔出土の金板経は、国宝に指定されている。
云々。。。


===
高麗鏡
高麗時代には非常に多くの青銅鏡が制作された。裏面には多様な文様が見られ、
安寧や子孫繁栄への思いが伝わってくる。よく似た文様の鏡が中国や日本でも
確認されることがあり、当時の広範な文化交流を物語っている。
云々。。。


佐賀県立名護屋城博物館。[佐賀県]

「名護屋城」の復元模型。


佐賀県立名護屋城博物館。[佐賀県]

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名護屋城跡二ノ丸「合阪」瓦出土状況
平成11年度の名護屋城跡石垣修理工事に伴い、事前の発掘調査を実施しました。
その結果、合坂(石垣を登り下りするための石段のひとつ)の最も下段で、
軒丸瓦および丸瓦を重ね合わせた瓦積みが整然と6列並んだ状況で確認されました。
これらの瓦群の上部には、石垣の石材や裏栗石が堆積していたことから、
瓦を人為的に置いた後に、石垣や石段を破却したものと推定されます。

崩壊した石垣等の状況から、破却は城全体におよび、大規模かつ徹底的に
行われている様相が認められます。

今回のこのような整然とした瓦の出土状況は、城の「破却」そのものの行為が
乱雑に進められることなく、ひとつひとつの過程を経ながら進められたことを
はっきり示しています。
今後、一国一城令(1615年)あるいは島原の乱(1637年)と推定されている
「名護屋破却」の問題を具体的に考えるうえで重要な資料の一つとなることでしょう。
云々。。。


佐賀県立名護屋城博物館。[佐賀県]

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秀吉、九州平定時に大陸侵攻の準備を命じる
豊臣秀吉書状(複製)
天正15(1587)年5月28日付、徳川家康宛

九州の島津氏を降した豊臣秀吉が、島津氏の処分や九州統治について、
駿府(現・静岡市)の徳川家康に伝えた書状。
大陸への侵攻に備えて博多に「御座所」を設けることや、朝鮮国が
秀吉に従わなかった場合には出兵する予定であることなども記している。
その後、出兵拠点は名護屋に変更され、天正19年ごろから
名護屋城の不請が開始される。
云々。。。


先月26日の書状を、本日肥後国佐敷(現熊本県芦北軍芦北町佐敷)において
受け取り、目を通した。
一、嶋津修理丈夫(島津義久)に薩摩一国を与える。人質については、男子が
一、いないため、嫡女を出させ、その他家老たちは人質を残らず10人ほどをそばに
一、置いておく。その上で、島津(義久)は大阪へと召し連れる。
一、嶋津兵庫頭(島津義弘)については、島津(義久)の弟であるが家督を継がせ、
一、確かに人質を取り、その上で惣領子(義弘の子)である又一郎(島津久保)を
一、召し連れ、大阪へ連れ帰った時には、兵庫頭(義弘)に大隅一国を与える。
一、肥後国は非常によい国であるので、羽柴陸奥(佐々成政)に与える。
一、名城である熊本城を居城とし、普請をしっかりとするように命じる。
一、豊前国は黒田勘解由(黒田考高)に与える。
一、筑前・筑後は小早川(隆景)に与える。ついては、肥後八代を経て博多へ秀吉が移り、
一、中国や南蛮・朝鮮の船の船着場である博多に御座所を定めて普請を命じ、
一、小早川(隆景)に両国を与えるので(御座所)の留守居とし、
一、(御座所を)作り置くこと。
一、本田豊後守(本田広考=家康の家臣)が見聞した九州のことについては早速、
一、暇はないが遠国であるので、国々の定めを五畿内と同様に入念に命じるため、
一、(秀吉が)しばらく逗留すること。
一、日向の巣鷹については、今年巣立つ鷹がいるので、(入用ならば)相談に応じる。
一、壱岐・対馬については、人質を残らず出させ、出仕させる。
一、高麗国(朝鮮国)については、対馬国の柳川権介(柳川調信)が申すには、
一、(高麗国は)贈り物を色々と準備し人質を出すなどの詫び言を言っているようであるが、
一、贈り物は不要であり、(高麗国に)日本之覚を下すので、高麗亭王(朝鮮国王)が
一、日本へ出仕するなら赦免する旨を申し遣わし、もし滞るようであれば高麗国へ
一、軍勢を渡すこととし、今年は船を残し置き、来春には軍勢を遣わし成敗することを
一、命じたので、(御座所)の普請を命じて6月中には大阪に戻る予定である。
(天正15年)5月28日 (秀吉花押)
徳川中納言(徳川家康)殿へ
云々。。。


佐賀県立名護屋城博物館。[佐賀県]

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桃山時代における石垣普請の技術力
小早川隆景書状
16世紀末/6月25日付

小早川隆景が石垣普請について述べた書状(宛先は不明)。文中に「大仏」と
みえることから、豊臣秀吉が京都に建立した方広寺に関する石垣普請であると
みられる。「石垣の反り」に着目しているほか、「小屋ほどの石で(石垣を)築いており、
人間の業とは思えない」と驚嘆する内容も興味深い。
大陸侵攻の拠点となった名護屋城は、九州の諸大名による割普請で築かれたが、
当時の記録にも「石を割って築き上げ」「京都の城よりも立派である」(平塚滝俊書状)
とみえるなど、16世紀末に石垣の築造技術が大きく発達したことがうかがえる。
小早川隆景は毛利元就の三男で、毛利輝元を支える有力家臣であったが、
天正14(1586)年に豊臣秀吉の命で筑前(現在の福岡県)に移った。文禄の役では
1万人を率いて渡海している。


加えて伝える。石垣は一か所もかねの手(曲=直角力)に過ぎる所はない。
二尺・三尺ずつほど内側を廻し、塀など築地に合わせている。
石垣の反りは内々にそれぞれ見た分だけだけである。現在、大仏の築地は
小屋ほどの石で築いており、人間の技とは思えないほどである。
一両日中に見物するほうが良いであろう。なお、重ねて申し下す。
謹言  6月25日 隆景(花押)
云々。。。


佐賀県立名護屋城博物館。[佐賀県]

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『肥前名護屋城図』屏風
桃山時代~江戸時代初頭

名護屋城と城下町の様子を克明に描いた絵図で、秀吉の御用絵師として
名護屋城内の数々の障壁画を手がけた狩野光信の作と推定される。画面中央に
大都市「名護屋」の賑わいを、その上半には名護屋城と諸大名の陣所を描き、
下半には豊臣軍の旗艦「安宅船」が浮かぶ名護屋浦が広がる。
画面左端中央付近の城下町の通りに、明国使節団の行列が描かれており、
文禄2年(1593)5月にこの地で行われた講和交渉をモチーフとしたものと考えられる。
桃山時代の城と城下町の詳細を描いた絵図は極めて貴重であり、
数例しか残っていない近世初頭の「都市図」として、研究価値の大きさが注目されている。
云々。。。


佐賀県立名護屋城博物館。[佐賀県]

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堀秀治陣(本曲輪)の復元
堀秀治は、当時越前北の庄(現福井市)を城地とした約18万石の大名で、
留守部隊として名護屋に駐留した。堀秀治陣は6つの曲輪(陣の一区画)からなる。
復元した本曲輪が陣の中心で、ここには能舞台や茶室までもが備えられていた。
云々。。。


佐賀県立名護屋城博物館。[佐賀県]

館内でひと際目を引いていたのは、
「安宅船」と「亀船」の10分の1サイズの復元模型。


佐賀県立名護屋城博物館。[佐賀県]

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安宅船
文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)当時、日本水軍の最強軍船である。
攻撃力・防御力などの面で他の軍船よりすぐれ、近代の戦艦に相当する。
この模型は「名護屋城図屏風」に描かれた安宅船などをもとに復元・制作したもので、
総矢倉形式の船体に二層の屋形を持つ。
云々。。。


佐賀県立名護屋城博物館。[佐賀県]

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亀船(亀甲船)
文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)当時、朝鮮水軍が誇る戦艦で、李舜臣将軍が
制作したといわれる。日本との海戦で活躍し、朝鮮水軍を勝利へと導いた。
この模型は「李忠武公全書」の亀船などをもとに復元・制作したもので、船の覆板を
亀の背中のように装甲し、船内には天字銃筒など大砲を備える。
云々。。。


佐賀県立名護屋城博物館。[佐賀県]

文禄の役当時の大名配置図。

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名護屋城跡並びに陣跡
名護屋城と諸大名の陣屋の跡は、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)に際し
築かれた他に例のない大遺跡群である。この遺跡群は、年代が明らかなこともあり、
安土・桃山時代の歴史、城郭建築・造園・文化など多くの分野にわたる
貴重な資料を有している。
この重要性から大正15年(1926)に史蹟に、昭和30年(1955)には特別史跡に
指定されている。
云々。。。


佐賀県立名護屋城博物館。[佐賀県]

名護屋城跡と陣跡の分布。

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遺跡の概要
この遺跡の中心である名護屋城跡は、石垣で造られた本丸・二ノ丸・三ノ丸など
9ヶ所の曲輪と通称鯱鉾池(しゃちほこいけ)と呼ばれる堀からなり、城外とは
大手口など5ヶ所の出入り口で結ばれている。
この名護屋城跡の周囲3kmの圏内に約120ヶ所の大小様々の陣跡が分布しており、
約半数に石塁や土塁などの遺構をみることができる。
云々。。。


なんと!
これだけ貴重な資料がたくさん展示してあるにも関わらず
入館無料なんですっ!
恐るべし、名護屋城博物館!
(撮影は展示品によっては不可です。)


佐賀県立名護屋城博物館。[佐賀県]

向こうに見える名護屋城の石垣。
と、手前のお食事処。
さぁさぁ、観て参ろうぞっ。



以前の記事はこちらから。
茨城空港~。

【佐賀県立 名護屋城博物館】
@佐賀県唐津市鎮西町名護屋




【omake】

佐賀県立名護屋城博物館。[佐賀県]

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トルハルバン
韓国済州道独特の伝統的な石人像。朝鮮半島本土のチャンスンと同様に、
邪悪なものを避ける一種の守護神として立てられていた。頭巾型の頭と
ユニークな顔立ち、上半身の腕と手以外が省略された姿は、石チャンスンなどの
石人像とよく関連付けられる。また、胸の前に手を置く様子は韓国本土の石仏と
類似しており、その影響を受けたことが考えられる。
「トリハルパン」の名称は、「石のおじさん」という意味の済州道の方言であり、
1970年代に付けられた。それ以前は「ウソンモク」「ポクスモリ」などと呼ばれていた。
云々。。。


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