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秋の沼田城跡。Vol.2 [沼田市]

前回に続いて「沼田城跡」であります。


=== 案内板より ===
鐘楼
真田氏が城主時代は城内に建てられていたが 廃城により取りこわされた
明治20年ごろ沼田町役場(藩役所跡 現市役所)東北隅に楼を建て
柳町歓楽院の梵鐘を借りて時の鐘にした
10年後に楼を修復した際その鐘を返し平等寺で保存の城鐘を懸け替えた

以来鐘楼は鐘憧堂と呼ばれ 戦時下にも供出をまぬがれたその鐘の音は
永く市民に親しまれてきた 
昭和39年市役所庁舎建設に際し撤去されたが 
市民の熱望により城の本丸跡のここに移して復元新築された
云々。。。


秋の沼田城跡。Vol.2 [沼田市]

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沼田城本丸堀跡
沼田城二ノ丸(野球場)から本丸(現在の花壇)の間に設けられた堀は、
幕府に提出した絵図(正保城絵図)によると、
本丸側に唯一石垣が積まれた沼田城で最も規模が大きな堀でした。
絵図には堀幅12間(約24m)で本丸に入る櫓門付近の石垣高は3間(約6m)と
記されています。
奥に見える池がこの堀の名残で、右側の石垣は天守があった真田氏の頃の
石垣の一部と考えられています。

平成9年に、この植え込みの中を発掘調査したところ、
池の石垣に連なる石垣の一部と堀の中に崩された石や
多くの瓦が出土しました。おそらく地中にはさらに北側数十mに渡り
石垣の下部が現存し、城が破却された際に埋め立てられた
おびただしい瓦や石が埋没していると考えられます。

出土した軒丸瓦は三巴門で、その周囲を巡る珠点は16個を数え、
信州の上田城出土瓦などとの類似性が認められています。
云々。。。


秋の沼田城跡。Vol.2 [沼田市]

「真田氏時代 沼田蔵内城」の図。


秋の沼田城跡。Vol.2 [沼田市]

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沼田城跡西櫓台の石垣・石段
天文元年(1532)頃に沼田顕泰によって築かれた沼田(倉内)城は、
上杉・武田(真田)・北条氏などの有力大名の狭間にあり、その属城として
幾多の変換をたどってきたが、天正18年(1590)の北条氏滅亡以降は
正式に真田氏の所有する城となった。真田昌幸の嫡男信幸は、初代城主として
城郭の大改修を手がけ、慶長年間(1591~1614)には五重の天守をはじめ
各種櫓や門などを建造して近世城郭として整備を行った。
しかし、天和元年(1681)に真田氏が改易になると城は壊された。
その後、本田・黒田・土岐氏と城主は代わり明治を迎えたが、城の本格的な復興は
なされなかった。

発掘調査により発見されたこの石垣や石段は、西櫓台(前方の小高い部分)
に伴うものであり、出土した瓦などから真田氏時代の遺構と考えられる。
5代城主信利(信澄)の改易により、翌年城は跡形もなく破却されたと云われていたが、
壊されずに地中に埋められていた部分が、
300年以上を経て再び往時の姿を現したのである。
云々。。。


秋の沼田城跡。Vol.2 [沼田市]

「御殿桜」。
沼田城の天守閣が5層の雄志を誇っていたころに植えられ、
今に残っている沼田城形見の名木。
樹齢400年以上なんだとか。


秋の沼田城跡。Vol.2 [沼田市]

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平八石の由来
沼田平八郎景義(かげよし)の首級を載せた石。
平八郎は沼田城(蔵内城)を築いた沼田氏12代顕泰(あきやす)の側室の子で、
摩利支天の再来とまでいわれた勇将。
顕泰は城を嫡子朝憲(とものり)に譲り、平八郎を連れ川場村天神城へ隠居したが、
側室とその兄金子美濃守らにそそのかされて、永禄12年(1569年)正月、
朝憲を呼び寄せて謀殺。そのため顕泰、平八郎は沼田勢に追われ会津へ逃げた。

平八郎は12年の後、沼田城奪還の兵を挙げて沼田に迫った。
真田昌幸は闘っては平八郎に勝てないと知り城中に居た金子美濃守をだました。
貪慾な美濃守は、己が栄進したいため平八郎に会い武装を解き、
こっそり城内に入れて「お前が必ず城主になれるようにしてやる。」と偽り、
城内へ誘い入れて殺害した。風雲児の最後また哀れだった。

時に天正9年(1581年)3月14日(一説は15日)42歳。
平八郎の首級は昌幸が実検の後、この石の上に置いた。
亡骸は町田町の小沢城址に葬り、沼田大明神として祀ったが
首級は此処から亡骸を埋めたところまで飛んで行ったという。
云々。。。


秋の沼田城跡。Vol.2 [沼田市]

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天狗面の由来
このお堂にある天狗面は、昭和34年11月に迦葉山(かしょうざん)の
大天狗面の分身として沼田市観光協会が製作した。
顔の長さ3メートル、顔の幅2メートル、鼻の高さ1.4メートル、重さ1トンで
木彫りの天狗面としては日本一の大きさを誇る(彫刻者:吉沢俊三郎氏)。
同年、市内の祭りに初めて天狗踊りの行列が登場し、
全国でも稀な行事として賑わいを見せた。
天狗面は迦葉山弥勒寺(みろくじ)の鎮守である中峰尊者の化身だといわれる。

弥勒寺は嘉祥元年(848年)に創建され、康正2年(1456年)に
天巽慶順禅師によって曹洞宗に改宗した。
禅師に随行した弟子の中峰尊者は数十年間に渡り布教と伽藍の造営に尽くした。
禅師が大盛禅師に住職の座を譲ると、「吾迦葉佛の化身にて己に権化化行は
終わった。よって今後は永くこの山に霊し末世の衆生を抜苦与楽せん」と誓願して
案山峰から昇天し、後に天狗の面が残されたといわれる。それを中峯尊と称して
祭り信仰を集めている。

現在、弥勒寺には地元商工会の有志が奉納した顔の長さ6.5メートル、
鼻の高さ2.8メートルの日本一の大天狗面が安置されている。
云々。。。


秋の沼田城跡。Vol.2 [沼田市]

秋の沼田城跡。Vol.2 [沼田市]

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沼田城天守
沼田城の天守は、真田氏初代城主となった信之(幸)が慶長年間(1596~1614)に
建造したと伝えられ、城絵図や古文書から規模は柱間で9間×10間(推定18m四方)の
5重であったとされています。
天守は、この右奥に位置していたと考えられますが、
幕府に提出したこの絵図によると、天守東の石垣は堀の底から8間もの高さがあり、
屋根には千鳥破風(三角形の屋根)が多くみられ、最上階には高欄が巡っていた様子が
分かります。関東における5重の天守は江戸城以外は沼田城だけであったことや、
天守付近から金箔瓦(金箔を張った瓦)も見つかっていることから、
関東において沼田城は特別な城であったと考えられます。

この名城も、残念ながら5代伊賀守が天和元年(1681)に改易となった後に、
幕府によって全て破却されて、以後、天守や櫓は再建されることはありませんでした。
沼田城の別称(倉内城・鞍打城・霞城)
云々。。。


秋の沼田城跡。Vol.2 [沼田市]

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上野国沼田城絵図(部分)
この絵図は、江戸幕府3代将軍家光が正保年間(1644~1647)に、
全国の大名に城の防備体制を絵図に描かせて提出させた、
いわゆる正保城絵図の一つで、真田氏4代城主信政の時代の沼田城と
城下町の様子が分かる非常に貴重な資料です。
原図は国立公文書館内閣文庫に所蔵され、大きさは1.76m×2.34mもあります。

絵図には、城を中心として石垣の高さ、堀や土塁の規模、堀中の流水の有無や
城下町の道程等兵法上の秘密となるべき事柄が克明に記されています。
真田氏が改易になる天和元年(1681)まで存在していた天守や櫓及び城門等の形態を
知ることができます。
云々。。。


秋の沼田城跡。Vol.2 [沼田市]


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沼田城跡
沼田城は、天文元年(1532)に三浦系沼田氏十二代万鬼斎顕泰が
約3ヶ年の歳月を費やして築いた。当時は蔵内(倉内)城と称し、
沼田市街地発祥のかなめで、当市の歴史の起点でもある。

築城して48年後の天正8年(1580)武田勝頼の武将真田昌幸が入城し、
城の規模を広げた。天正18年(1590)昌幸の長子信幸が
沼田領二万七千石の領主となり、慶長年間に五層の天守閣を建造した。
天和元年(1601)に真田氏五代城主伊賀守が江戸幕府に領地を没収され、
翌2年1月に沼田城は幕府の命により破壊された。
その後、本多氏が旧沼田領177ヶ村のうち46ヶ村・飛地領合わせ
四万石の藩主として入封し、幕府の交付金で城を再興し三の丸に屋形を建てた。
次いで、黒田氏2代、土岐氏12代の居館となったが、明治になって版籍奉還し、
屋形も取り壊された。時を経て本丸・二の丸跡が、現在の沼田公園に変貌した。
云々。。。


案内をひろって行くのは嫌いぢゃないのですが、
久しぶりに大量でした(笑
というわけで、少しだけ次回につづく。。。



以前の記事はこちらから。
秋の沼田城跡。[沼田市]
以前のお城関係はこちらから。
旧文武学校と白井家表門。[長野市]

【沼田城跡】
@群馬県沼田市西倉内町

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