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益田市・医光寺。

益田市の「医光寺」です。
雪舟さんが作られたという、
国史跡にも指定されている庭園が拝見できるということでやって参りました。

先ずは、正面に建つ「総門」であります。


益田市・医光寺。

=== 案内板より ===
医光寺総門
高麗門形式の門で、屋根は切妻造り、本瓦葺、中央を高くし、
両側を一段低くした構造になっています。

この門は、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの後、
益田氏20代元祥の長門国須佐への移住に伴い
廃城となった七尾城の大手門を移築したものと伝えられています。
七尾城の大手(城の正面)は、医光寺から向かいの南側に見える
七尾城山の中央の谷あいと考えられています。
南北朝時代には当時の大手口「北尾崎木戸」で三隅方との合戦があったことが
益田家文書に残っています。


益田市・医光寺。

17世紀後半に屋根を改めたといわれ、
前面の都市計画道路中島染羽線の整備に伴い、平成4年度に
本堂から中門の延長線上に若干位置を移動し、解体修理が行われました。


益田市・医光寺。

構造、意匠とも簡素ですが、本柱、冠木ともに太く、
戦国時代末期の豪壮な城門の姿を残す貴重な建造物です。
云々。。。


益田市・医光寺。

「雪舟灰塚」。

===
雪舟灰塚の由来
画聖雪舟(小田等楊)は禅の戒律を守り、無為自然の素朴な世界を
この益田の地に求めて、遂に文亀2(1502)年、83歳の高齢で、
山寺東光寺、現在の大喜庵にて、一生を終わりました。

医光寺伝によると寺格において、東光寺よりも崇観寺(現在の医光寺)が一段と高いので、
この地で火葬に附し、記念碑を遺したと伝えられ、これを世に雪舟灰塚と称しています。

碑面には「前東福 見崇観 後東光 雪舟楊大禅師」と刻んであるが、
これは雪舟がかつて京都の東福寺にて修行した後に、崇観寺と経て、
東光寺を訪れ、生涯を終えたことを意味しています。
飾り気のない清楚な碑のたたずまいは、名利に惑わされない雪舟の姿にふさわしく、
御用絵師にみられない自由さとひたすら画境を求めては旅を続ける
雪舟の真価がひしひしと伝わってきます。
云々。。。


益田市・医光寺。

そしてこちらが雪舟さんが作られたという、
医光庭園」であります☆


===
国指定
史跡及び名勝 医光寺庭園

画聖雪舟作、池泉観賞(一部回遊)式庭園。
雪舟は文明11年(1479)、益田氏第15代当主益田兼尭(かねたか)に招かれ、
画業の傍ら作庭したと言われている。


益田市・医光寺。

この庭園は山畔を巧みに利用した上下二段で構成されている。
鶴を形どった池泉部に亀島(蓬莱神仙島)を浮かべており、
その背には三尊石を整えている。
さらに庭の左上方には須弥山石を据え、その下に枯滝石組を置く
蓬莱山水の手法で作庭されている。
春の枝垂桜、秋の楓等々背後の竜蔵山と融合して
四季折々に異なった趣を表す庭園である。


益田市・医光寺。

当庭園は万福寺庭園(市内)、常栄寺庭園(山口県)、
旧亀石坊庭園(福岡県)とともに「雪舟四大庭国」と言れている。
云々。。。



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初めて訪れた雪舟さんゆかりの地。
勉強になったなぁ。


===
雪舟
備中国赤浜(現在の岡山県総社市)で生まれ、若くして京都に上り、
禅僧としての修行とともに画を学びました。
その後大内氏を頼って山口に下り、明(中国)へも渡って日本の水墨画を大成し、
画聖と呼ばれています。

雪舟は益田氏15代兼堯(かねたか)の招きで益田を訪れ、重要文化財の
「益田兼堯像」(益田市立雪舟の郷記念館に所蔵)や「花鳥図屏風」
(京都国立博物館に所蔵)を描き、萬福寺や医光寺に庭園を作ったといわれます。
晩年に当地を再び訪れ、山寺東光寺(現在の乙吉町大喜庵の前身)で
87歳の生涯を終えたと伝えられています。
云々。。。



以前の記事はこちらから。
田吾作。[島根県益田市]

【医光寺】
@島根県益田市染羽町

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