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高崎市の箕輪城跡。その1

=== 案内板より ===
箕輪城復元想像図
この図は長野氏時代の箕輪城の復元想像図です。この頃の大手(城の正面)は
今の搦手(城の裏門)にあったといわれています。
したがって、この図は当時の大手口(東明屋方面)から望んだものです。
云々。。。


高崎市の箕輪城跡。その2

というわけで、前回に続いて「箕輪城跡」です。

実は、帰りがけに、二の丸前の駐車場にいたおじさんに
資料をいただきました★
その資料より紹介したいと思います。
おじさん、ありがとうございます♪


高崎市の箕輪城跡。その3

=== いただいた資料より ===
国指定史跡 箕輪城跡
◎箕輪城の遺構

・箕輪城は1598(慶長3)年、高崎(和田)に移城したことによって、
廃城となりました。
・廃城に伴う移築などから当時の建物は全く残っていませんが、
大規模な堀や石垣などは良好に残り、当時の様子を偲ばせています。


高崎市の箕輪城跡。その8

・箕輪城の最大の特徴は、大規模な堀です。本丸周辺では最大幅30m、
深さ10mの空掘りが巡り、他にも、城の中央部を南北に分断する役割のある
大彫切など同時代の城としては全国的な規模の堀が城内各所に残っています。
なお、大部分の堀は空掘と思われます。


高崎市の箕輪城跡。その4
「二の丸」

・大手門から本丸へ上がる途中の虎韜門(ことうもん)・鍛冶曲輪・三の丸・
二の丸などには石垣が残っています。城内の中でもこのルート沿いに
石垣が集中しています。城の目立つ場所に城主の権威を示すために
築かれたのかもしれません。

・箕輪城は長野氏以降、城主が度々代わっています。発掘調査などでは、
城主の交代による城の造りかえの状況が明らかになってきています。
現在ある堀や石垣などは最後の井伊氏時代に使われていたもので、
長野氏時代の城とはかなり異なっています。
云々。。。


高崎市の箕輪城跡。その5
「三の丸」

===
◎箕輪城の歴史
・箕輪城は西暦1500年頃に高崎市の浜川地域を拠点にしていた長野氏が築城した城です。
・長野氏に関する文書史料が少ないことから、築城年・築城者など
不明の点が多くあります。後の系図などから、築城者は長野業尚(なりひさ)で、
その後、憲業(のりなり)、業政(なりまさ)、業盛(なりもり)の計4代にわたって、
長野氏が箕輪城を拠点にしていたと考えられています。


高崎市の箕輪城跡。その6

・長野氏は業政のの代に全盛期を迎え、西上野の諸将と婚姻関係を結び、
勢力を広げました。永禄年間に入ると、西上野は甲斐の武田、相模の北条、
越後の上杉の三巴の戦いの舞台になります。

その結果、長野方の要所である国峰城(甘楽町)、安中城(安中市)、松井田城(安中市)、
倉賀野城(高崎市)などが武田信玄によって落城してしまいます。
こうした中、長野業政は関東管領山内上杉家に対して、最後まで尽くしていたことで
知られています。
そして、永禄9(1566)年、難攻不落であったと伝えられる箕輪城も
ついに落城することになりました。


高崎市の箕輪城跡。その10

・落城後は、武田・織田・北条・徳川氏の城として使われます。
この間城主になったのは、各戦国大名の重臣で、武田氏時代(1566~1582)は
内藤昌秀など、織田氏時代(1582年の1か月弱)は滝川一益、
北条氏時代(1582~1590年)は北条氏那などが城主を務めています。

そして、最後の徳川氏時代(1590~1598年)は、井伊直政が
徳川家康の家臣では最大の領地(12万石)を拝領し城主になっています。
このように、戦国時代を通じて、西上野で最大の拠点になった城です。
云々。。。


高崎市の箕輪城跡。その9

高崎の「箕輪城」。その遺構もさることながら、
長野氏時代、そして落城後の武田氏~徳川氏時代。
それぞれの時代でドラマがあるんですねー。

それにしても、全国に名を馳せた有名な猛将さんたちが
城主を務めていたのにはオドロキました★
群馬のお城にハマりそうです(笑

またゆっくり訪れてみたい城跡でした♪



以前の記事はこちらから。
箕輪城跡の本丸周辺。[高崎市]

【箕輪城】
@群馬県高崎市箕郷町

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