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ウワサのBECCAN。ブログbeccanです。グルメ、おサケな話、チマタの話題などなど。

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湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」。その16

ゆるやかな坂の町「湯沢町」。
ここからの眺めが意外に好きなのです♪

湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」。その1 湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」。その2 湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」。その3

そしてこの通り沿いにある「湯沢町歴史民俗資料館」。
雪国館」ですっ。

入り口では「石櫃」と諏訪神社の「神木根」が出迎えてくれます。
石櫃は大きな石をくり抜いて造られた、中に重要なものを入れて
保管しておく、今で言う金庫のようなものです。
キターッ。


湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」。その4

湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」。その15 湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」。その5 湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」。その12
(写真はクリックで大きくなります。)

民俗資料館ですからご多分にもれず、
昔使われていた農器具や生活品などが展示されています。


湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」。その11

=== 館内資料より ===
原始より近現代まで
湯沢町のおいたち
今から数千年前にも、この地域に人が住んでいたことは、各所に散在する
縄文遺跡から出土する石器、土器によって明らかである。

湯沢町が歴史や記録に出てくるのはようやく中世になってからで、
特に南北朝時代越後に入った新田氏と足利氏の間に争乱が起き、
この地域はにわかに騒然となった。
やがて上杉謙信が春日山城に拠って越後を統一し、十数度にわたって
関東へ出陣するが、その通路として最も多く三国越えが利用された。

江戸時代に入ると五街道に次ぐ重要道としてここが整備され、宿駅が置かれた。
三国街道は越後諸大名の参勤交代や幕府の公用に、
また庶民の往還として盛んに利用された。

明治維新後宿駅が廃止され、
次いで新幹線の開通が街道の衰退を決定的なものにした。
地域に再び曙光が射しはじめたのは昭和6年の上越線開通に始まり、
36年の国道17号線開通によって一躍脚光を浴びるに至った。
云々。。。


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三国街道の宿場町として
三俣の歴史①
江戸から越後・佐渡へ人・物資を運ぶ主要道であった三国街道。
その宿場町として栄えた新潟県湯沢町三俣地区は、現在も登山客、
スキー客などを迎える旅館や民宿が建ち並びます。
その町並みにはかつて隆盛を極めた頃の宿場町の姿がところどころに息づき、
日本人の原風景が広がっています。


湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」。その8

三俣を足がかりとした武将たち
越後を統一した上杉謙信は、三復庵(さんぷくあん)を本陣として、
関東へ進軍するようになりますが、謙信は夢叶わず、他界します。
その後継の座を巡り、天正6年(1578)に景勝と景虎の間で「御館の乱」がおこります。
その戦のさなか景勝は景虎についた北条軍から坂戸城(六日町)を守るため、
芝原峠に荒戸城を築き、攻撃に備えますが、四万もの大群に
攻め落とされます。しかし、徐々に形勢を挽回し、
最終的に景勝が越後の盟主の座につきました。
云々。。。


江戸に一番の近道・三国街道
江戸時代、越後と江戸を結ぶルートは、高田・信州回りの北国街道、
新発田・会津回りの会津街道など複数ありましたが、中でも江戸と
佐渡金山の最短ルートでもある三国街道は、幕府が早い時期から
道普請(工事)をおこない、物資の運搬や参勤交代などに使用し、
江戸~越後・佐渡間の物流に重要な役割を果たしてきました。
八木沢には口留番所が置かれ、当地から他藩への特産物の持ち出しを
厳しく取り締まっていました。
云々。。。

湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」。その9 湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」。その10

「脇本陣池田家上段の間の床の間(左)」と、
「上段の間内部から見た襖の絵(池田家)」

三俣の歴史②
峠越えの拠点だった三俣地区
上州から湯沢までは、険しい山々が続く峠道のため、一日で
歩き通すことが困難でした。そのため、浅貝・二居・三俣の三つの宿場は
峠越えの拠点に利用され、特に最も設備が整っていた三俣宿は、
参勤交代の大名や佐渡に赴任する奉行などによく利用されました。

三俣宿の中でも本陣の関家、脇本陣の池田家・越後屋・湊屋の四軒が有力でした。
そのうち池田家は、三俣大火(1848)や戊辰の役の戦火、大正の大雪崩など、
たびたびの難を免れて当時のまま現存し、昭和29年(1954)2月10日に
新潟県指定文化財になりました。
云々。。。


宿場の没落
江戸時代後半、商人の流れが活発になるにつれ、商人たちは宿場を素通りする
ようになり、三俣宿の繁栄にも翳りが見え始めます。
さらに、嘉永元年(1848)の大火によって、幕府などから受けた借り入れ金の
返済に苦しめられ、衰退に拍車を掛けることとなりました。
慶応3年(1867)、大政奉還に反対する会津藩の一派が三国峠で征討軍と戦いますが、
敗れてしまいます。
敗れた会津藩は宿駅を征討軍に使われないよう、浅貝宿・二居宿を
焼き払いながら敗走し、芝原峠付近で再度、征討軍と戦おうとしましたが、
退路を断たれるという噂が広まり、あわてて落ち延びていったため、
三俣宿は戦火を免れました。
しかしその後、新体制の下で宿駅制度が廃止となり、本陣・脇本陣も
廃止されることになりました。
云々。。。


湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」。その6

「大正7年の大雪崩の救出活動」

三俣をとりまく自然環境
雪との戦い
多い時には4~5m近くまで雪に埋もれるこの三俣では、
雪に関する記録が数多く残されており、雪にまつわる悲しい思い出や
雪との戦いなどが今日に伝えられています。


大正の大雪崩
大正7年(1918)1月9日午後11時30分頃、三俣地区を大雪崩が襲い、
一瞬にして小学校を含む集落の半数近い28戸が倒壊し、
158名もの尊い人命が奪われました。
この雪崩は、一つの居住地に起きたものでは、世界でも類を見ない
大惨事となりました。
また、この災害では復興支援のため、総額1万3千円に及ぶ義捐金が
各地より寄せられ、その一部で被災地に雪災記念碑を建立しました。
云々。。。


湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」。その7

「雪道を行く三俣郵便局員」

冬の郵便逓送隊
明治5年(1872)、新しい郵便制度が始まると、東京~新潟便は三国街道を通り、
上り下りとも月6便で開始されましたが、同8年には、毎日便、同18年には
1日2便になりました。
翌年、信越線開通に伴い、郵便は直江津回りで運ばれましたが、
冬は雪により鉄道が不通になることが多く到着まで平均4日かかるため、
憲法発布・国会開設を控えた国にとって重要なこの時期は、重要書類をまとめた
1便を所要日数の短い、三国街道経由で逓送し、残りを鉄道便で輸送していました。

逓送に活躍していた脚夫は、郵便物約12kgを1時間で2里半(約10km)運ぶことが
規定されていました。
しかし、山道の三国峠だけは1時間で2里が認められていました。
とはいえ、冬は大変な作業で、配達遅延を招かぬよう
深夜吹雪の中を逓送することもありました。
云々。。。


湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」。その14 湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」。その13

「雪国のヒロイン駒子の住んだ部屋」
~前略~
この部屋は、そのヒロイン駒子のモデルと云われる芸妓「松栄」が
昭和初期に住んだ置屋「豊田屋」を移築し、再現したものです。
当時、豊田屋は、湯坂の下、村の鎮守諏訪社の森のそばに在り、
二階に芸妓を置き、煙草や駄菓子なども商う店であったと云われます。
云々。。。


生活に密着したその風土。
雪を語らずして湯沢町は語れませんねー。
三俣エリアの紹介も多く、勉強になったなー。

雪とロマンの町「湯沢町」であります。。。



以前の記事はこちらから。
三俣観音堂と百庚申。 [湯沢町三俣]

【湯沢町歴史民俗資料館 雪国館】
@新潟県南魚沼郡湯沢町大字湯沢354番地1
TEL/025-784-3965
開館時間/9:00~16:30
入館料/大人500円、子供250円
おやすみ/水曜日(祝日の場合は翌日が休館日)


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コメント
この記事へのコメント
越後湯沢の歴史
私も何度か入館しましたが、中は閑散としてました。外はお洒落なスキーウエアーで彩られた若者グループが素通りです。スキーや温泉を楽しむのも良いのですが、歴史も学んで頂きたいなぁと思いました。せっかくノーベル賞の舞台となった土地なのに、勿体ないですね。
2013/01/08(火) 21:39 | URL | アゲイン #-[ 編集]
アゲイン さま★
そうなんですよね!
湯沢町ってノーベル賞の舞台にもなったところなんです★
美味しいものがあって、風土、歴史があって
とても興味シンシンな湯沢町!
また行こうかな、なんて思っています♪
2013/01/09(水) 07:43 | URL | BECCAN #-[ 編集]
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