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朝です。
鹿児島市内を流れる甲突川沿いに、
「歴史ロード・維新ふるさとの道」があります。
幕末を中心に、鹿児島、日本の歩んだ歴史を学ぶことのできる、
まさに、ご馳走テンコ盛りのエリアであります(笑 


歴史ロード「維新ふるさとの道」。鹿児島市、その1

=== 案内板より ===
西欧列強のアジア進出と薩摩藩
- 島津斉彬とジョン万次郎・ペリー来航 -
19世紀の初め、イギリス・フランスなどの西欧列強が植民地を求めて
アジアに進出してきました。
1840年に勃発したアヘン戦争に清が敗北したことは、
日本の有識者たちに強い衝撃を与え、日本も西欧列強の
植民地にされてしまうのではないかと危惧するようになりました。

こうした状況の中、西欧列強の実力をよく認識していた島津斉彬は、
積極的に西欧の科学技術・諸制度を導入して
軍事力の強化や産業の育成を図るべきであると考え、
藩主に就任すると、鉄製砲を鋳造するための反射炉の建設や造船事業など、
日本の近代工業の先がけともいえる「集成館事業」を始めました。


歴史ロード「維新ふるさとの道」。鹿児島市、その2

島津斉彬画像。

斉彬は、海軍力の強化を図るために、造船事業にも力を注ぎ、
まず「越通船」という船の建造に着手しましたが、建造にあたっては
土佐(高知県)のジョン万次郎が大きな役割を果たしました。

ジョン万次郎(中浜万次郎)は、天保12(1841)年、漁の途中で遭難し
漂流しますが、アメリカの捕鯨船に助けられ、アメリカ本国に上陸しました。
その後、捕鯨船に乗るなどの異国体験をして日本に戻り、
嘉永4(1851)年、琉球に上陸しました。


歴史ロード「維新ふるさとの道」。鹿児島市、その3

昇平丸模型。

洋式造船を始めようと考えていた斉彬にとって、ジョン万次郎は
思いかげない情報源でした。そこで斉彬は、琉球から送られてきた万次郎を
鹿児島に留め、長崎に送るまでの40数日間、田原直助や船大工などに造船や
航海術などを学ばせ、船の模型を作らせました。
これをもとに越通船の建造を行い、琉球航路などで使用しました。
なお、後にジョン万次郎は、薩英戦争後の元治元(1864)年に設立された
薩摩藩の洋学校「開成所」の教授としても招かれています。

嘉永6(1853)年には、ペリー艦隊が浦賀に来航し、日本に開国を求めました。
斉彬はすでにその前年に長崎からアメリカ使節来航の情報を入手していたことから、
来航に備えて様々な対策を講じるとともに、ペリー来航後は、
幕府の求めに応じて対応策を建言するなどしています。
また、これを機に、斉彬は海防の重要さを訴えて大船建造禁止令の撤廃を求め、
幕府がこれを解禁すると、洋式船12隻・蒸気船3隻の建造計画を発表し、
大砲を備えた洋式軍艦「昇平丸」や蒸気船「雲行丸」などを建造しました。
云々。。。


===
薩摩藩と英国の関わり
- 生麦事件から薩英戦争へ -
文久2(1862)年、島津斉彬の死後に薩摩藩主となった島津忠義の父・
島津久光は、藩の実験を握り、兵を率いて上京します。
久光は朝廷の信頼を得て幕政改革を成功させますが、その直後、
江戸からの帰国途中、横浜の生麦村にさしかかったとき、4人のイギリス人が
行列に馬を乗り入れ、行列を乱したため、薩摩藩士がこのイギリス人を殺傷するという
事件が起こりました。これを「生麦事件」といいます。

これに対しイギリスは、幕府に賠償金の支払いを、薩摩藩に賠償金の支払いと
犯人の処刑を求めました。幕府はこの求めに応じ賠償金を支払いましたが、
薩摩藩は拒否します。
そこで文久3(1863)年6月、イギリスは横浜から鹿児島へ7隻の軍艦を派遣し
鹿児島で直接交渉することにしました。
一方、薩摩藩でもイギリスの報復攻撃を想定し、着々と迎撃体制を整えていました。
薩摩では西欧の科学技術の導入に積極的であった島津斉彬の時代に
砲台などの軍備がかなり整備されており、当時日本の最大口径砲・
150ポンド砲を始め、90門余りの大砲が各所にすえつけられていました。

文久3(1863)年6月27日、イギリス艦隊は鹿児島湾に姿を現し、
賠償金等を再度要求しましたが、薩摩藩は拒否します。
その後、薩摩側は西瓜売りに変装させた80人余りの武士たちを
イギリス艦隊に潜入させる奇襲も試みますが失敗しました。


歴史ロード「維新ふるさとの道」。鹿児島市、その4

7月2日、ついに薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃して開戦。
薩摩側が譲歩してくると考え、戦闘準備を整えていなかったイギリス艦隊は
一時慌てましたが、体制を整えると激しい砲撃を翌3日まで続けました。
この結果、薩摩藩の砲台は壊滅的状態になるとともに、
城下町の一部と集成館の工場群が焼失し、18人の死傷者が出ました。
しかし、薩摩側も善戦して多くの英国艦に命中弾を与え、旗艦の
艦長以下63人の将兵を死傷させました。

こうして両者痛み分けの形で戦闘は終了し、4日、イギリス艦隊は
鹿児島湾をあとにして横浜へ向かいました。
薩英戦争後、西欧の進んだ軍事・科学技術を積極的に取り入れたい薩摩藩と、
フランスに対抗する政治的理由から徳川幕府にかわって薩摩藩との関わりを
強めたいと考えるようになったイギリスは利害関係が一致し、
和解することとなりました。
云々。。。


すんごい勉強んなるっ♪
つづく。。。



以前の記事はこちらから。
高見橋と大久保利通像。 [鹿児島市]

【歴史ロード「維新ふるさとの道」】
@鹿児島県鹿児島市加治屋町


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