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天明三年浅間やけ遺跡、鎌原観音堂にて。 その2

今だ活動を続ける活火山「浅間山」。
かつて、その山麓にあった鎌原村。
そしてその集落に現存する「鎌原観音堂 kanbara」。
以前から訪れてみたかった場所なのです。


天明三年浅間やけ遺跡、鎌原観音堂にて。 その1

=== 案内板より ===
天明三年浅間やけ遺跡(三十三回忌供養碑)
天明3年(1783年)の浅間山噴火により、鎌原村は〝土石なだれ〟に襲われ、
118戸、477人(馬4165頭)は一瞬のうちに埋没し、高い所にあった鎌原観音堂だけが
唯一の建物として残りました。
生き残った90余人がこの堂に集まって罹災者の供養を続けながら
村の再建につとめてきました。

この供養碑は、爆発から33年後(文化12年)に建てられました。
災害の後、90余人の生存者は互いに縁を結び、家族を構成して、荒地を耕し、
生活してきましたが、33回忌を迎えるに当たって隣村の援助を受け、
この供養碑を建立したのです。
本体の4面には、碑を建てたいわれと477人の流死者の戒名が
所狭しと書き連ねられています。
云々。。。


天明三年浅間やけ遺跡、鎌原観音堂にて。 その4

天明三年浅間やけ遺跡、鎌原観音堂にて。 その5

===
延命寺石標
明治43年、吾妻川の洪水の際、約25km下流、東吾妻町矢倉の河原で
1基の石標が発見された。
この石標はその後、地元の人たちの配慮で鳥頭神社の境内に保存されていたが、
銘文に「延命寺」と記されていたことや右上の破損部分が
鎌原区内の道標となって残っていたことから、天明3年浅間やけの折りに埋没した
「鎌原村」の延命寺の門石と判明し、昭和18年鎌原区に戻された。

中央に刻まれた浅間山は「浅間大明神」を指すものであり、
延命寺は、浅間大明神の別当寺であることを示したものと考えられる。
石標はおそらく、鎌原宿の家並みの連なる本通りから、
延命寺に入る参道の脇に建てられたものであり、浅間やけの際、
押出しによって流出したことが明らかになった。
云々。。。


天明三年浅間やけ遺跡、鎌原観音堂にて。 その6 天明三年浅間やけ遺跡、鎌原観音堂にて。 その7

延命寺があったと云われるところ。
今は畑と原っぱになって当時の面影はありません。


天明三年浅間やけ遺跡、鎌原観音堂にて。 その8

「天明三年二百回忌供養 観音像」。


天明三年浅間やけ遺跡、鎌原観音堂にて。 その9

「謝恩碑」。


天明三年浅間やけ遺跡、鎌原観音堂にて。 その10

「嬬恋郷土資料館」。

===
土石なだれに沈んだ鎌原村
その村は、天明3年7月8日までは、浅間山の北麓にあった。
信濃と上野を結ぶ交通の要所にあった鎌原村(現・群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原)には、
当時、およそ100軒の家と500数十人の人々が住んでいたが、477人の命とともに、
浅間山からの土石なだれの下に飲み込まれてしまったのである。

ここに紹介した遺物は、上野寛永寺末寺で、浅間大明神の別当である
延命寺跡遺跡から出土した資料と、鎌原観音堂の南に位置した
十日ノ窪遺跡から出土した資料である。
被災した鎌原村は、近隣の村人による救済事業によって、
急速な復興をとげることになる。
その後、生存した93人は、全員「骨肉の一族」として親族の約束をして(耳嚢)
村をたて直し、ふたたび、鎌原村は宿場の景観を取り戻したのであった。
云々。。。


昔話のように、歴史の中の出来事ようだけれど、
実は身近に起こりえるかも知れないんだなぁ、と
なんだかしみじみ思ってしまう。。。
深いです。。。

つづく。



【鎌原観音堂】
@群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原


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