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国定忠治と大戸関所跡 その1

=== 案内碑より ===
国定忠治磔刑場遺跡
上州侠客此処に眠る
忠治は41才の時関所破りの罪に依り磔の刑に処せられ
今の一番奥の石塔の下に埋められて居るのである

国定忠治と大戸関所跡 その3

天保7年忠治は27才の時に30余人を連れて大戸の関所を破り
反逆の罪となり磔刑された

(注)
当時の刑法の條文からすると徳川氏制検札宣告文百ヶ条の内
第20に於て関所を破って山越した者
関所を忍び通った者 関所を通らず山越した者
又案内者等は其の関所にて磔刑にし
女は郷土より追放すとある
秋に二夜三日間晒首とされた

国定忠治と大戸関所跡 その4

郷土の人々は忠治の冥福を弔って墓碑と
地蔵尊建立し(現在は新しく石碑建直した)

国定忠治と大戸関所跡 その5

尚処刑に関する当時の準備始末書は
同地大字須賀尾高橋慶重氏及び
元大戸郵便局長一場氏宅に保存されて居る
云々。。。


=== 案内板より ===
大戸関所跡
大戸関所は、信州街道の要点をおさえる重要な関所で、
近世初頭の寛永8年(1632年)に設置された。

信州街道は草津温泉を始めとする湯治客、善光寺参り、
北信濃の三侯の廻米や、武家商人のの荷物、各地の産物の輸送路として、
中山道を凌ぐ程の活気を呈したともいわれ、
江戸と信濃を結ぶ最短距離として重要な街道であった。
別名信州道、草津道、善光寺道、大戸廻りとも呼ばれていた。

国定忠治と大戸関所跡 その6

大戸関所は元和9年5月(1623年)将軍秀忠上洛の時に、
要害の此の地を守護したのが始まりといわれる。
其の後、寛永7年に幕府目付によって、関所見立の巡検があり、
翌8年に正式に関所が設けられた。

中山道の脇往還で、碓氷関所の裏固めの意味を持っている。
以後230有余年の間、幕府代官の管理の下に運営され、
明治元年9月に廃止された。

国定忠治と大戸関所跡 その7

関所は通行手形によって往来の旅人を厳重に取締り、
関所破りは重罪として処刑された記録がある。
註「関所を避けて山越しなどをした者」
通行の門限は明六つから暮六つ(午前6時より午後6時)までと定められていた。
また要害地域を守る関所付の村として、
大戸、荻生、本宿の3ヶ村は関所番人をを出し、
警備に当たったり、関所破りを監視するなどの負担を義務づけられ
近隣の11ヵ村は関所普請村に充てられていた。

嘉永3年12月(1850年)に関所破りの罪を受け、
侠客国定忠治はこの地で処刑された。
映画や講談、浪曲でも知られる處である。
云々。。。


なんだかすごく淋しい場所でありました。。。



以前の記事はこちらから。
旧信州草津街道と忠治とまどいの松  ★吾妻郡東吾妻町

大戸関所跡
@群馬県吾妻郡東吾妻町

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