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ウワサのBECCAN。ブログbeccanです。グルメ、おサケな話、チマタの話題などなど。

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=== 案内板より ===
旧信州草津街道と忠治とまどいの松
旧信州草津街道は、江戸と信州・草津を結ぶのに距離が短く
割りに平坦な谷間であるために古くから利用されてきました。

寛永8年(1631)には大戸に関所が設置され
(関所の門限 明け六つ~暮れ六つ 明治元年8月4日廃関)、
中仙道の脇往還として主要な街道でした。

元禄12年(1699)以後は信州三大名の廻米の輸送や
物資の運搬が活発となり、寛保3年(1743)には江戸城西の丸まで
天下の名湯草津温泉の湯が8代将軍徳川吉宗に
この街道を上って献湯されました。
また善光寺街道でもありました。

辛夷(こぶし)の花の咲き始める頃ともなると
参詣人や湯治客の往来が一層足繁くなったといわれています。

旧信州草津街道と忠治とまどいの松 その1

関八州に鳴りひびいた侠客国定忠治は、
大戸の関所を避けて山越をしたために関所破りの罪に問われ、
嘉永3年(1850)12月21日、大戸の字広瀬の藪川原において
磔(はりつけ)の刑に処せられました。
時に41才でした。

古文書によれば(萩生 一場大作所蔵)元禄6年(1693)
吾妻郡萩生村と、群馬郡権田村の山境に
境塚が築かれた際に塚の上に境松として植えられたものが
忠治とまどいの松の前身といわれています。

榛名道と二度上峠(にどあげとうげ)より軽井沢へと通ずる
大沢峰の信州草津街道の分岐点に
翼を広げた様に枝を伸ばしていたそうです。


前記した関所破りで忠治が山越えをしたのは、
天保7年(1836)といわれていますが、このとき、
やがて越さねばならぬ大戸の関所を心に決めかねて
松の根本にたたずみ迷った、と伝えられるところから、
誰言うとなく「忠治とまどいの松」として
近郷の人たちに親しまれてきました。

旧信州草津街道と忠治とまどいの松 その2

朝な夕なに往来する旅人たちに
峠の息吹を与えたであろうこの老樹も
240余年もの風雪に耐えてきましたが昭和12年(1937)に
枯れてしまいました。
現在この地にある松は3代目となるもので
街道の歴史を今に伝えています。

徳川時代末期、徳川家譜代の旗本であった小栗忠順公は
官を辞して群馬郡権田村に退隠しました。
馬術が達者であった小栗公は遠乗りをして
領地境の峰の松まで時折見廻りに訪れたと伝えられています。
明治元年(1868)4月5日官軍に捕らえられて
鳥川の畔で40才の若さで非業の最期を遂げたのは
今なお惜しまれています。
云々。。。



忠治とまどいの松
@群馬県吾妻郡東吾妻町

コメント
この記事へのコメント
いつもこちらのブログをこっそりと拝見させて頂いてます^^
足利から彼女を迎えに行く時に、いつも通る所です
寄ってみよう寄ってみようと思っておりましたが、つい何気なく通り過ぎてました

2010/05/28(金) 19:18 | URL | 遠恋 #TY.N/4k.[ 編集]
遠恋 さま★
いつも見て頂きまして、恐縮です★
今回のドライブコースでたまたま立ち寄った所。
昔の侠客の方が今尚なぜ人気者なのかなぁ~、
なんて思いがわいて来る場所でした。
2010/05/29(土) 07:11 | URL | BECCAN #-[ 編集]
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