![北新波砦史跡公園。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kitaaranamitoride-0-9.jpg)
以前、桜の記事でご紹介しました「北新波砦史跡公園」です。
今回、遺跡・史跡で再登場。
![北新波砦史跡公園。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kitaaranamitoride-0-10.jpg)
=== 案内板より ===
北新波砦史跡公園
早瀬川とその支流関端川に挟まれたこの地は北新波町字古城である。
15、16世紀にこのあたりに勢力持っていた長野氏は、
多数の城郭群を形成していたが、古城の地にある北新波砦跡と
隣接する満勝寺郭は早瀬川や関端川を外郭とする
大きな防御線の中心部であったと考えられる。
![北新波砦史跡公園。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kitaaranamitoride-0-11.jpg)
![北新波砦史跡公園。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kitaaranamitoride-0-12.jpg)
本史跡は南北約75m、東西約75mのほぼ正方形をなす小郭で、
南辺中央部に出桝状の突出部を付属させ、
周囲には巾4~5mの堀と土塁をめぐらし、
突出部東側の土橋から郭外に通じる構造である。
![北新波砦史跡公園。[高崎市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kitaaranamitoride-0-13.jpg)
昭和59・60年度に高崎市教育委員会が史跡整備を目的とした
発掘調査を実施している。
調査箇所は堀部と郭内の一部のみであったため全容は明らかではないが、
建物跡や井戸跡と考えられる遺構と共に当時の生活用具類や
古銭、墓石等が出土している。
云々。。。
![草軽電鉄 電気機関車。[長野県軽井沢町]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kusakaru-8-1.jpg)
ノスタルジックで、とても雰囲気のある建物は「しなの鉄道軽井沢駅」。
こちらの駅の前に展示されているが、
〝カブトムシ〟の愛称で親しまれた、草軽電鉄の「電気機関車」です。
![草軽電鉄 電気機関車。[長野県軽井沢町]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kusakaru-8-2.jpg)
![草軽電鉄 電気機関車。[長野県軽井沢町]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kusakaru-8-3.jpg)
=== 案内板より ===
草軽電鉄電気機関車
この機関車はデキ12形機関車といいアメリカのジェフェリー社で
大正9年に製作したハンドブレーキ常用、非常用電気ブレーキ付きという
鉱山用のトロッコを改造したものである。
![草軽電鉄 電気機関車。[長野県軽井沢町]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kusakaru-8-4.jpg)
大正4年7月より草軽軽便鉄道営業を開始、大正15年軽井沢~草津間
(55.5キロ)の電化が完成してから、昭和37年1月31日路線を廃止するまでの
約35年の間、地元民の足として、また、旅行者・避暑客の良き案内人として
親しまれた電気機関車である。
![草軽電鉄 電気機関車。[長野県軽井沢町]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kusakaru-8-5.jpg)
南側の一対の車輪は、同機関車が牽引した客車の車輪である。
云々。。。
![田町十王堂。[長野県埴科郡坂城町]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/murakami-bosho-9-1.jpg)
長野県埴科郡坂城町です。
〝村上義清公墓所〟を訪ねたら、小さなお堂がありました。
「田町十王堂」であります。
=== 案内板より ===
田町十王堂(閻魔堂)
閻魔堂とも呼ばれている田町十王堂。十王とは人の死後、初七日から
三周忌までの間に冥途の十人の王が十回の裁判をして、
来世の行先を決めるという、十王信仰に由来するものです。
これは、中国の道教の影響によるもので、十王のうち怒った顔で有名な
閻魔王の本当の姿が地蔵菩薩であることから、その信仰が盛んになるにつれて、
閻魔王が十王の中心になったといわれています。
![田町十王堂。[長野県埴科郡坂城町]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/murakami-bosho-9-2.jpg)
生前に十王にお参りすると、死後の裁判のとき手心を加えてくれるとされ、
信仰は人々の間に広まり江戸時代は各村落に十王堂が設けられていました。
十王の祭りは正月と盆の16日、つまり薮入りの日で閻魔の斎日とよばれていました。
田町の祭りは盆(8月16日)のみですが、
地域住民により現在も賑やかに引き継がれています。
明治初年、新政府の廃仏毀釈政策で檀家のない十王堂はすべて廃されました。
そのころ田町の堂は、火災にみまわれましたが、諸像は運び出されて無事でした。
庶民の十王に対する信仰は根強く、地区の公会堂を設けたときに、
十王像などを安置し、やがて祭りも復活しました。
地獄の沙汰も金次第といわれますが、人々にとって、
来世で地獄に落されることは最大の恐怖だったのです。
田町十王堂は、近隣の十王堂が廃されたことから多くの参詣客を集め、
当地でもっとも人出の多い祭りといわれました。
また十王堂は遊郭の少女達の教育の場としても使われ、
出浦氏の墓地にあったお堂を利用して祀られたと考えられています。
十人の裁判官と本地仏
忌日 十王 本地仏
初七日 泰広王 不動明王
二七日 初江王 釈迦如来
三七日 宋帝王 文殊菩薩
四七日 五官王 普賢菩薩
五七日 閻羅(魔)王 地蔵菩薩
六七日 変成王 弥勒菩薩
七七日(四十九日) 太山王 薬師如来
百ヵ日 平等王 観世音菩薩
一周年 都市王 大勢至菩薩
三周年 五道転輪王 阿彌陀如来
云々。。。
![田町十王堂。[長野県埴科郡坂城町]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/murakami-bosho-9-3.jpg)
で、
十王堂の脇を通った奥に。。。
![坂城神社。[長野県埴科郡坂城町]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/sakaki-jinja-16-1.jpg)
長野県埴科郡坂城町にある「坂城神社」です。
![坂城神社。[長野県埴科郡坂城町]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/sakaki-jinja-16-2.jpg)
![坂城神社。[長野県埴科郡坂城町]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/sakaki-jinja-16-5.jpg)
「参道」と「鳥居」。
![坂城神社。[長野県埴科郡坂城町]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/sakaki-jinja-16-3s.jpg)
![坂城神社。[長野県埴科郡坂城町]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/sakaki-jinja-16-4s.jpg)
1つ目の「狛犬」クン。
![坂城神社。[長野県埴科郡坂城町]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/sakaki-jinja-16-6.jpg)
2つ目の「狛犬」クン。
=== 案内板より ===
坂城町指定文化財
坂城神社狛犬 一対
天和2年(1682)石川市左衛門義孝奉納の銘が刻まれている。
寄進者は、天和2年(1682)~元禄16年(1703)までの22年間坂木に陣屋をおいていた
坂木藩板倉氏の家臣である。
この狛犬は、当地方を板倉氏が領地としていたことを証するものである。
![坂城神社。[長野県埴科郡坂城町]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/sakaki-jinja-16-7.jpg)
狛犬の容姿は、板状台付一石彫成、全体小形であるが、胴はよくしまり、
胸の張りも広く、引き締まった姿をしている。
頭の後ろに処理されている巻毛の作りも丁寧である。
獅子の独特な面相をもち、前方をにらんで神社を守護する風格がある。
造形的にみて、中世の面影が認められる。
製作は江戸時代中期頃で、町内の石造物としての狛犬では、古い方になる。
石質は、中粒灰色砂岩である。
云々。。。
![二ツ山古墳1号墳と2号墳。[太田市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/19052yamakofun-8-1.jpg)
太田市です。
道路を挟んで2つの古墳があります。
「二ツ山古墳」。
こちらは1号墳です。
![二ツ山古墳1号墳と2号墳。[太田市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/19052yamakofun-8-2.jpg)
=== 案内板より ===
二ツ山古墳1号墳
二ツ山古墳1号墳は、この地域に所在した古墳群中の1つで、
南東に隣接する2号墳と共に、前方後円墳である。
かつては周辺にいくつかの円墳が見られたが、現在は残っていない。
![二ツ山古墳1号墳と2号墳。[太田市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/19052yamakofun-8-3.jpg)
この古墳は、主軸を北西から南東にとり、全長74メートル、高さ6メートルで、
2段に構築され、周囲には掘跡が認められる。
墳丘はよく原型を保ち、下段の平坦部には二重にめぐらされた円筒埴輪列のほか、
人物・馬などの埴輪列があり、墳頂部からは家形埴輪が出土した。
![二ツ山古墳1号墳と2号墳。[太田市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/19052yamakofun-8-7.jpg)
![二ツ山古墳1号墳と2号墳。[太田市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/19052yamakofun-8-4.jpg)
石室は、明治21年(1888年)に発掘され、南南西に開口している横穴式石室である。
奥行は約7メートル、高さ約1.8メートルから2.1メートル、奥壁は1石、
側壁は下部に大型の石を並べ、上に行くに従い徐々に小さくなる傾向がある。
石室内からの出土品は、刀剣類、馬具等があり、
東京国立博物館に保管されている。
この古墳の特徴としては、円筒埴輪の配列により、
前庭状の施設が設けられている点が挙げられる。
![二ツ山古墳1号墳と2号墳。[太田市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/19052yamakofun-8-5.jpg)
![二ツ山古墳1号墳と2号墳。[太田市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/19052yamakofun-8-6.jpg)
築造年代は古墳文化が終末期に入ろうとする6世紀後半から
7世紀の初め考えられている。
その規模から、二ツ山古墳群の中枢をなしていたものと思われる。
また南方の寺井廃寺、新田郡衙との関係を考える上で貴重な古墳である。
云々。。。
【二ツ山古墳1号墳】
@群馬県太田市新田天良町
![村上氏城館跡。[長野県埴科郡坂城町]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/murakamiyakata-1.jpg)
長野県埴科郡坂城町です。
太くて大きな石柱が建っています。
「村上氏城館跡」です。
![村上氏城館跡。[長野県埴科郡坂城町]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/murakamiyakata-2.jpg)
正面に見えるお寺さんは「満泉寺」。
=== 案内碑より ===
長野県史跡 村上氏城館跡
居館跡
この館跡は、村上氏が旧更級郡村上郷から
坂城郷に移ったとされる南北朝時代末頃に葛尾城とともに構築し、
戦国時代に信濃の一大豪族として活躍し、
天文22年4月村上義清が武田信玄により没落するまで、
160年余村上氏代々の居館であった。
![村上氏城館跡。[長野県埴科郡坂城町]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/murakamiyakata-3.jpg)
当時の規模は明確でないが、現満泉寺地を中心とした
方170メートルに及ぶ広大なもので、内郭とその周囲を取りまく外郭から
成っていたものと推足される。
云々。。。
以前の記事はこちらから。
○ 旧坂木宿本陣表門。[長野県埴科郡坂城町]
以前のお城はこちらから。
○ 鶴ヶ城。March. 2019 [福島県会津若松市]
【村上氏城館跡】
@長野県埴科郡坂城町坂城
![旧坂木宿本陣表門。[長野県埴科郡坂城町]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/sakakiomote-5-3.jpg)
長野県埴科郡坂城町です。
「坂木宿ふるさと歴史館」にある土壁の門。
「旧坂木宿本陣表門」です。
=== 案内板より ===
旧坂木宿本陣表門
ここは江戸時代の初め、坂木宿本陣の宮原家が置かれたところです。
この本陣は、寛政11年(1799年)の火災により焼失してしまいました。
脇本陣の中沢家が代わって本陣となりましたが、
天保4年(1833年)に宮原家が再建され、参勤交代での、加賀藩の本陣は
交代で勤めることとなりました。
![旧坂木宿本陣表門。[長野県埴科郡坂城町]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/sakakiomote-5-1.jpg)
この本陣の表門は、間口6間、奥行2間半で、入母屋造り、桟瓦葺きです。
門扉以外は土塀による大壁造りで、
扉には八双金物という飾り金具の痕跡があります。
このことから、江戸時代の中ごろに建てられたものと考えられます。
以後、何度か改築が繰り返されましたが、
坂木宿本陣の跡として唯一残った遺構として、
平成16年3月25日坂城町指定有形文化財に指定しました。
云々。。。
![坂城陣屋跡。[長野県埴科郡坂城町]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/sakakijinya-3-1.jpg)
長野県埴科郡坂城町、「坂城駅」です。
![坂城陣屋跡。[長野県埴科郡坂城町]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/sakakijinya-3-2.jpg)
こちらの相向かいに案内板が建っています。
「坂木陣屋跡」です。
=== 案内板より ===
坂木陣屋跡
元和4年(1618)4月金井村から杭瀬下村まで(上徳間千本柳内川村を除く)の
千曲川東側14ヶ村が幕府直轄領となり坂木5000石と称された。
坂木村に陣屋が置かれ代官による政治がここで行なわれた。
寛永元年(1624)からは越後松平領天和2年(1682)よりは板倉領となる。
この時代は坂木藩と呼ばれ此の場所に5万石の藩庁が置かれた。
元禄16年(1703)4月板倉氏は福島へ移封となり再び幕府直轄領となった。
宝暦4年(1754)には陣屋は中野へ移り坂木5000石は中野預りとなった。
同9年までは出張陣屋として存続したがそれ以後廃されるにいたった。
初めは民家を借用したものであったが天和元年(1681)
松代藩主真田幸道の預かり時代に新築された。
この建物は明和4年(1767)横町の大火の折焼失した。
現在陣屋の面影をとどめていないが
この東側の石垣と石垣上の稲荷社跡および旧称陣屋道が当時の遺構である。
云々。。。
以前の記事はこちらから。
○ 笄(こうがい)の渡し。[長野県埴科郡坂城町]
以前の陣屋はこちらから。
○ 大東神社。[伊勢崎市]
【陣屋跡の案内板】
@長野県埴科郡坂城町坂城
=== 案内板より ===
寺井廃寺出土瓦
強戸小学校から強戸中学校にかけての地域からは、
第二次世界大戦前から古瓦の出土が知られる。
その後も、鉄釘、金具、瓦溜、礎石などが発見されており、
これらの出土品や、この地域が「寺井」、「天良(てんら)」という
寺に関係のある地名であることから、古代寺院遺跡の存在が想定されている。
しかし、その寺院の名称は、資料がないため、不明であり、
「寺井廃寺」と呼ばれている。
また、規模や構造などの詳細も、本格的な発掘調査が行われていないため、
不明である。
![寺井廃寺出土瓦。[太田市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/teraihaiji1-2.jpg)
出土瓦には、軒丸瓦・軒平瓦・丸瓦・平瓦がある。
軒丸瓦には、上野国分寺式系の素紋縁五葉重弁蓮華文瓦と、
これより古い大和川原寺式系の面違鋸歯文縁八歯複弁蓮華文瓦などがある。
寺井廃寺は、有力な豪族の氏寺として、7世紀末頃(奈良時代白鳳期)
に建立されたと推定され、東毛地域ではもっとも古い寺院と考えられている。
この頃、豪族たちは仏教の影響を受け、
古墳の代わりに寺院を建立するようになったものと考えられる。
寺井廃寺出土瓦
強戸小学校から強戸中学校にかけての地域からは、
第二次世界大戦前から古瓦の出土が知られる。
その後も、鉄釘、金具、瓦溜、礎石などが発見されており、
これらの出土品や、この地域が「寺井」、「天良(てんら)」という
寺に関係のある地名であることから、古代寺院遺跡の存在が想定されている。
しかし、その寺院の名称は、資料がないため、不明であり、
「寺井廃寺」と呼ばれている。
また、規模や構造などの詳細も、本格的な発掘調査が行われていないため、
不明である。
![寺井廃寺出土瓦。[太田市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/teraihaiji1-2.jpg)
出土瓦には、軒丸瓦・軒平瓦・丸瓦・平瓦がある。
軒丸瓦には、上野国分寺式系の素紋縁五葉重弁蓮華文瓦と、
これより古い大和川原寺式系の面違鋸歯文縁八歯複弁蓮華文瓦などがある。
寺井廃寺は、有力な豪族の氏寺として、7世紀末頃(奈良時代白鳳期)
に建立されたと推定され、東毛地域ではもっとも古い寺院と考えられている。
この頃、豪族たちは仏教の影響を受け、
古墳の代わりに寺院を建立するようになったものと考えられる。
![笄(こうがい)の渡し。[長野県埴科郡坂城町]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kougainowatashi-7-6.jpg)
長野県埴科郡の坂城町です。
前を通る度に気になっていたスポット。
「笄の渡し」です。
![笄(こうがい)の渡し。[長野県埴科郡坂城町]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kougainowatashi-7-4.jpg)
=== 案内板より ===
笄の渡し
時は戦国、室町末期。
村上義清は幾年にもわたって武田信玄と激しい戦いを繰り広げていましたが、
天文22年(1553)4月、ついに居城の葛尾城が陥落し、敗走の混乱の中、
奥方と別れ別れに城を後にしたのでした。
義清夫人は数人の腰元を従えて着のみ着のまま暗い山道を下っていきました。
![笄(こうがい)の渡し。[長野県埴科郡坂城町]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kougainowatashi-7-2.jpg)
千曲川辺に来た義清公の奥方たちは、この川を渡って村上の支城である
上山田の荒砥城へ逃れようと、船と船頭を探してわけを話したところ、
船頭は快く引き受けて無事に向こう岸の力石につくことが出来ました。
奥方は、我が身の危険をかえりみず舟を出してくれた船頭に心打たれ、
お礼として髪にさしていた笄を手渡しました。
村人たちは義清公夫人を偲んで、
この渡しを「笄の渡し」と呼ぶようになったということです。
云々。。。

なんと、遠く広島から届いた差し入れであります。
「KitKatと旅じゃが」。
KitKatは〝もみぢ饅頭味〟。
広島を代表するお菓子・もみぢ饅頭の、その味わいっ。
旅じゃがは瀬戸内海の夏みかんと冬だいだいの果皮をからめたという。。。
とても楽しみっ♪
さ、コーヒー入れよう。
Iクン、どうもありがとう!ごちそうさまですっ。
以前の差し入れはこちらから。
○ 淡雪 awayuki。
![炭焼 利衛門。[足利市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/ankakera-men-3-1.jpg)
足利市にある焼き鳥屋さん、
「炭焼 利衛門」さんでのランチタイム。
「あんかけラーメン」。
![炭焼 利衛門。[足利市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/ankakera-men-3-2.jpg)
魚介と野菜で具だくさん。
ごちそうさまでしたー★
以前の記事はこちらから。
○ 炭焼 利衛門。October. 2018 [足利市]
【炭焼 利衛門】
@栃木県足利市朝倉町3丁目8-27 N3ビル1F
TEL/0284-73-5665
営業時間/18:00~
おやすみ/日曜日
![竜神峡 鯉のぼりまつり。[茨城県常陸太田市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/koiibaraki-4-1.jpg)
茨城県常陸太田市、
「竜神峡 鯉のぼりまつり」です。
![竜神峡 鯉のぼりまつり。[茨城県常陸太田市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/koiibaraki-4-2.jpg)
絶景かな、絶景かな~♪
![竜神峡 鯉のぼりまつり。[茨城県常陸太田市]](https://blog-imgs-128-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/koiibaraki-4-3.jpg)
開催は5月中旬まで。
以前のこいのぼりはこちらから。
○ 滝沢古墳。[群馬県北群馬郡吉岡町]
以前の吊橋はこちらから。
○ 老神温泉の紅葉。[沼田市]
○ もみじ谷大吊橋にて。。。 ★那須塩原市
【竜神大吊橋】
@茨城県常陸太田市天下野町
![馬高・三十稲場遺跡。[新潟県長岡市]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/umadaka1904-8-1.jpg)
新潟県小千谷市にある、
「馬高・三十稲場遺跡」です。
![馬高・三十稲場遺跡。[新潟県長岡市]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/umadaka1904-8-2.jpg)
=== 案内板より ===
史跡馬高・三十稲場遺跡
◆馬高・三十稲場遺跡(関原町1丁目)は、信濃川左岸の段丘上に位置する
縄文時代の大規模な集落跡です。
「遠藤沢」と呼ばれる小さな沢をはさんで、東側に中期(約5000年前)の馬高遺跡、
西側に後期(約4000年前)の三十稲場遺跡が広がっています。
標高は約60~65mです。
![馬高・三十稲場遺跡。[新潟県長岡市]](https://blog-imgs-126-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/umadaka1904-8-3.jpg)
◆これまでに数多くの遺物が発見されており、
馬高遺跡は「火焔土器」発祥の地として、
また三十稲場遺跡はヒスイや滑石などを加工した玉づくりのムラとして著名です。
昭和54年に両遺跡のほぼ全域約45000㎡が国史跡に、平成2年と14年には
最初に発見された「火焔土器」と主要な出土品が重要文化財に指定されています。