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花見塚神社。[太田市]

尾島カルタ。

つつじ咲く 匂当内侍(こうとうないのないし)の 花見塚



=== 案内板より ===
花見塚公園
江戸時代初期の頃まで、この地には、名木のつつじが一面に咲き乱れていた。
建武の中興に功績のあった新田義貞は、
後醍醐天皇のおそばに仕えた匂当内侍を、その恩賞として賜った。
当代一の美人と言われた内侍のために、義貞はこの地に新しい館を構え、
その庭に各地から集めたつつじの名木を植えたと言う。
義貞の没後、内侍は尼となってここで義貞の菩提を弔ったと伝えられ、
柊塚とか花見塚と呼ばれていた。

寛永4年(1627)、当時の領主榊原(松平)忠次は、
ここのつつじ数百株を城下の館林に移したと伝えられ、
今のつつじが岡公園の古木がそれで、樹齢800余年を経ているのもあると言う。
公園は、世界一のつつじの名所となっている。

その後の当地は、義貞と内侍の墓と伝えられる墓石のある墳丘と、
当花見塚に至る道筋に、小字「花見道」の地名が残るのみで、
わずかに往時を偲ばせていたが、全町史跡公園化整備計画の一環として、
ゆかりの地館林から若木のつつじを求め、公園として整備をしたものである。
云々。。。


太田市にある「花見塚公園」です。
こちらの公園内には「花見塚神社」、
そしてなんと、新田義貞公の「首塚」、
それとそれと、義貞公の妻と伝わる「匂当内侍のお墓」があります。


花見塚神社。[太田市]

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花見塚神社の由来
新田義貞は元弘3年(1333)5月8日生品明神の御前に旗を挙げ
15日で鎌倉幕府を倒し、建武の中興に大きな功績を上げた。
義貞が入洛したのは元弘3年7月で、論功行賞で従四位上に叙せられ、
上野・播磨両国の国司となる。同年8月5日であった。
此の頃から建武2年(1335)11月19日、義貞、尊氏追討のため、
京都を出て鎌倉に向かうまでが国宣の発給や
内部調整御所の警備など多忙であったので
故郷を立って2年8ヶ月余りその間1度も帰国することは出来なかった。
此の後は箱根、竹の下の戦に敗れて京都まで退却、各地の戦いを経て、
比叡山で立て篭もり、和解による北陸落ち義貞は北陸の地で討死した。

匂当内侍は藤原の経尹(ツネタダ)の三女一条行房の妹、名前は不明。
匂当内侍は単なる官女ではなく内侍を尚侍、典侍、掌侍に分け、
各正四人権二人、合計18人其の第一位を匂当内侍という。
匂当は事務を担当して処理する。奏請は天皇に奏上して裁可を請うこと。
伝宜は勅旨を伝達すること等を掌る。
女官の中でも天皇に一番近い重要な役職であった。
義貞と匂当内侍の出会いは義貞が入洛して建武2年義貞の尊氏の追討軍を
だすまでの間で早い段階ではなかったか。年若く美人で教養が豊富、特に
琴の演奏などには素晴らしいものがあった。
気脈が通じ合うのも早かった。お互いに御所のなかでの勤務が幸いした。
天皇の一声で目出度く結ばれた。

運命の悪戯か戦いが休みなく続き義貞最後の日がきた。
例に依って都大路を引き回され晒首になっていた。
匂当内侍は悲嘆にくれその場に崩れ伏した。お供の衆に助けられ首を持ち去った。
髪を剃り墨染の衣に身を包み義貞の故郷えの旅は長かった。
漸く目指す武蔵島ゆかりの地にたどり着き、
柊の木を植え其の傍らに義貞の首を埋め、成仏を念じた。
その傍らに簡素な庵を建て以来30年に及ぶ仏道修行の日が続く。
毎日1本の躑躅の木を近くの山林から取り集め植えることにした。
これが花見塚の基礎になった。

正平元年8月16日(1346)宗良親王は南朝の忠臣の多くが戦死し
その勢いが衰えるさまを心配され、御父後醍醐天皇と皇祖神武天皇を合祀した
花見塚神社を建てられ南朝の皇運を祈られた。(宮下相伝記)
然し宝暦元年4月(1751)火災により焼失して今日に至る。
このゆかりを以て昭和45年(1970)11月3日下野入道南順の後裔宮下一族相集まって
花見塚神社を再建するに至った。
云々。。。


花見塚神社。[太田市]

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須賀神社由来
祭神 宮下筑後守正繁公
祭神 横瀬信濃守泰繁公
宮下筑後守正繁公は天文14(1545)年4月小田原の城主北條氏康の旗下
武蔵国忍の城主成田下総守氏長の軍勢が当新田領へ侵攻して来た事を
岩松の住人森隼人、古海住人小島三郎両人より注進を受けた、
依って直に幕僚長尾新六郎渕名上野介、白石豊後守等を横瀬信濃守泰繁と
共に従えて武蔵国(現・妻沼聖天様南)堰宮に出陣した。
防戦大いに努めると雖も敵勢剛強にして激闘遂に利なく堰宮の陣を退き払い、
羽生より新田庄南田島東南武蔵島村の飛地、須賀山村に退いた。
然るに俄に前後より伏勢起こり善戦遂に空しく正繁、泰繁の両将相共に
此処に自刃して果てられた。

正繁公の嗣子又左衛門繁貞は天正元年(1573)年10月父正繁公と
泰繁公の両霊を祀り須賀大明神と号して社殿を討死の地須賀山に建立した。
又泰繁公の嗣子由良成繁は社領を寄進した。
其の寄進状には「須賀社領の事。新田堀口領分の内六石弐斗を祭祀料として・・・
天正元年10月2日由良信濃守成繁(花押)宮下又佐尉殿」とある。
(・・・以下略・宮下相伝記)

以来須賀神社は同郷鎮守の如くに祭祀されて来たが、
弘化3年(1846)の利根川大洪水の為社殿も神域も荒廃に帰したので
二柱神の境内に遷座されたが幾星霜を経るに従い
社殿等は損壊して形を止めぬようになった。
昭和45年11月3日(1970)下野入道南順の子孫宮下一族相集まって
花見塚神社を再建するにあたり同社に合祀した。
下野入道南順の女は宗良親王の第一子国良親王の室
(母は匂当内侍の女山吹姫となり宮の一字を賜り下野の下と合わせて
宮下となり国良親王の第一子正治の時始めて宮下を名乗りました。
(宮下家正系図)

以来40年余り社屋の破損も目立つようになり宮下一族合議のうえ、
多数の賛助者、ご協者を得た。
そして上屋の新築、宮殿の改築、完成の運びとなった。
云々。。。


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