![秋の沼田城跡。Vol.2 [沼田市]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/numataj0-2-11.jpg)
旧沼田城を見てまわりましたが、
最後に、こちらの文化財を。
時間の都合で入館はしませんでしたので、案内板を少々。。。
=== 案内板より ===
旧生方家住宅
生方家は沼田藩の薬種御用達を勤めた商家で、沼田市上之町199番地に所在し
城下町の本格的町屋として東日本における稀にみる古い遺構であることから
国の重要文化財に指定された。
建物の年代は専門家の意見によれば構造手法からみて
およそ17世紀末期頃に建てられたものと思われる。
その後、元治、明治、大正、昭和と数次にわたり改修を受けながら使用されてきた。
沼田市はこの建物を譲り受け沼田公園内に移築保存することとなり、
昭和48年6月、国・県の補助を受け復元工事を完了した。
建物は間口六間、奥行十間、南面に土庇、東面に下屋を設ける。
切妻造り、妻入りで屋根は板葺石置である。
平面は主屋南面に「上みせ」「下みせ」「通り庭」を配し
東側の「上みせ」奥に四室をならべ、家のほぼ中央には二十畳の広い板の間を設け
西の通り庭から北側にかけて土間を設けてある。
これは町屋としての典型的な間取りであり、各部屋の境に壁が多く、
柱の密度も高いがこれが古い建物の特色である。
小屋組は貫を成りちがいに通した和小屋で、
仕上げは大部分手斧はつりで古式を残している。
云々。。。
===
旧土岐家住宅洋館
この建造物は、沼田藩主だった土岐家の家督を継いだ章子爵が大正13(1924)年、
現在の東京都渋谷区に建築した住宅で、現存する洋館部分が
土岐家からの寄贈により旧土岐邸洋館として平成2年8月にこの地に移築された。
外観の特徴は、大正末期から昭和初期にかけてみられたドイツの郊外別荘風住宅で、
俗に「牛の目窓」と称される屋根窓を中央に配した急勾配の天然スレート葺屋根と
2階の下見板張りの外壁、1階の黄土色のドイツ壁仕上げに大正期特有の様式が
よく表されている。
また、洋館内部意匠は、装飾を豊かに用いた明治期の洋館と異なり、
壁・天井ともに白漆喰仕上げとして和室とともに表面の装飾的な扱いを避け、
生活を基本とした内部意匠を優先させている。
本建築は、明治期の大規模邸宅建築に見られた独立した洋館から、
洋館と平屋の和館が連接し、応接空間を小規模の洋館として玄関脇に設置する
昭和初期の文化住宅への過渡期を示す特徴を有している。
部屋の間取りも土岐子爵の接客内容をよく伝えており、
大正末期の貴重な遺構である。
平成9年に登録有形文化財として文化庁登録原簿に登録された。
云々。。。
![秋の沼田城跡。Vol.2 [沼田市]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/numataj0-2-2.jpg)
前回に続いて「沼田城跡」であります。
=== 案内板より ===
鐘楼
真田氏が城主時代は城内に建てられていたが 廃城により取りこわされた
明治20年ごろ沼田町役場(藩役所跡 現市役所)東北隅に楼を建て
柳町歓楽院の梵鐘を借りて時の鐘にした
10年後に楼を修復した際その鐘を返し平等寺で保存の城鐘を懸け替えた
以来鐘楼は鐘憧堂と呼ばれ 戦時下にも供出をまぬがれたその鐘の音は
永く市民に親しまれてきた
昭和39年市役所庁舎建設に際し撤去されたが
市民の熱望により城の本丸跡のここに移して復元新築された
云々。。。
![秋の沼田城跡。Vol.2 [沼田市]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/numataj0-2-1.jpg)
===
沼田城本丸堀跡
沼田城二ノ丸(野球場)から本丸(現在の花壇)の間に設けられた堀は、
幕府に提出した絵図(正保城絵図)によると、
本丸側に唯一石垣が積まれた沼田城で最も規模が大きな堀でした。
絵図には堀幅12間(約24m)で本丸に入る櫓門付近の石垣高は3間(約6m)と
記されています。
奥に見える池がこの堀の名残で、右側の石垣は天守があった真田氏の頃の
石垣の一部と考えられています。
平成9年に、この植え込みの中を発掘調査したところ、
池の石垣に連なる石垣の一部と堀の中に崩された石や
多くの瓦が出土しました。おそらく地中にはさらに北側数十mに渡り
石垣の下部が現存し、城が破却された際に埋め立てられた
おびただしい瓦や石が埋没していると考えられます。
出土した軒丸瓦は三巴門で、その周囲を巡る珠点は16個を数え、
信州の上田城出土瓦などとの類似性が認められています。
云々。。。
![秋の沼田城跡。Vol.2 [沼田市]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/numataj0-2-3.jpg)
「真田氏時代 沼田蔵内城」の図。
西宮神社は、七福神の一人・お恵比寿様をお祀りしている神社で、
毎年11月には「恵比寿講」祭りが行われます。
お恵比寿様は「福の神」のことで、
恵比寿講祭りは開運や商売繁盛を願うお祭りです。
さぁ、皆でいってみよーっ!
というわけで恵比寿講デス、2015年っ!
○ 桐生市「えびす講」
日 時/2015年11月19日(木)~20日(金)
場 所/桐生西宮神社・群馬県桐生市宮本町2丁目
![えびす講祭りに行ってきました♪[2011] 桐生市★西宮神社 その11](https://blog-imgs-26-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/ebi-k-2011-11s.jpg)
○ 足利市「恵比寿講」
日 時/2015年11月19日(木)~20日(金)
場 所/西宮神社・栃木県足利市西宮町3129
![えびす講祭りに行ってきました♪[2010] 足利市★西宮神社 その6](https://blog-imgs-45-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/ebisu-ashikaga-2010-6s.jpg)
以前のえびす講はこちらから。
○ えびす講祭り 2012。 [足利市*二柱神社]
○ えびす講祭りに行ってきました♪2011。 [桐生市*西宮神社]
毎年11月には「恵比寿講」祭りが行われます。
お恵比寿様は「福の神」のことで、
恵比寿講祭りは開運や商売繁盛を願うお祭りです。
さぁ、皆でいってみよーっ!
というわけで恵比寿講デス、2015年っ!
○ 桐生市「えびす講」
日 時/2015年11月19日(木)~20日(金)
場 所/桐生西宮神社・群馬県桐生市宮本町2丁目
![えびす講祭りに行ってきました♪[2011] 桐生市★西宮神社 その9](https://blog-imgs-26-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/ebi-k-2011-9s.jpg)
![えびす講祭りに行ってきました♪[2011] 桐生市★西宮神社 その11](https://blog-imgs-26-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/ebi-k-2011-11s.jpg)
○ 足利市「恵比寿講」
日 時/2015年11月19日(木)~20日(金)
場 所/西宮神社・栃木県足利市西宮町3129
![えびす講祭りに行ってきました♪[2010] 足利市★西宮神社 その1](https://blog-imgs-45-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/ebisu-ashikaga-2010-1s.jpg)
![えびす講祭りに行ってきました♪[2010] 足利市★西宮神社 その6](https://blog-imgs-45-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/ebisu-ashikaga-2010-6s.jpg)
以前のえびす講はこちらから。
○ えびす講祭り 2012。 [足利市*二柱神社]
○ えびす講祭りに行ってきました♪2011。 [桐生市*西宮神社]
![足利の文化財一斉公開 2015。[足利市]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/ashi-bunka2015.jpg)
普段、なかなかお目にかかれない仏像、絵画、彫刻、建造物。
一斉公開です!
個人的に大好きなイベントの1つ。
11月21日(土)から22日(日)の2日間。
まさにお宝です!
2日間だけじゃ足りないかも。。。
さぁ、みんなで行ってみよーっ!
「足利の文化財一斉公開 2015」
日 時/2015年11月21日(土)、22日(日)
日 時/9:30~16:00
会 場/足利市内各所(市内73ヶ所の社寺、施設等)
詳しくは、
○ http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/page/bunkazaiisseikoukai2015.html
中でも注目は、今年創師祀300年を迎えた梁田「星宮神社」でしょうか。
建築の年月日、建築棟梁などの他、彫刻の完成年代、
御用彫り物師の氏名なども判明したそうです!
また、高欄下の猿の像は、全国でも3例しかない珍しいものなのだとか。
他社にはない様々な仕掛けや、彫刻のパターンのお話は必聴★
もう、これは観るしかありませんっ。
S様、貴重な情報ありがとうございました。
以前の記事はこちらから。
○ 樺崎八幡宮と法界寺跡 ★足利市
○ 文化財一斉公開 その4 足利市★星宮神社本殿
![草津街道にあった風景。[東吾妻町]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kurabuchikaiwai-2.jpg)
高崎市内から北西に向かう国道406号線。
パラパラと小雨が降り続いている今日です。
![草津街道にあった風景。[東吾妻町]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kurabuchikaiwai-3.jpg)
鳥川に沿って、田舎の風景が広がっています。
史跡も点在していて、以前にも走ったことがあったなー。
○ ぶちゅ~~、っと!中室田の道祖神 ★高崎市
○ 榛名山座主の森。 [高崎市]
○ (伝)権田栗毛終焉の地。 [高崎市]
○ 水沼弥生時代住居跡。 [高崎市]
![草津街道にあった風景。[東吾妻町]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kurabuchikaiwai-4.jpg)
関所跡があったり、国定忠治さんの磔刑場跡があったり。。。
○ 国定忠治と大戸関所跡 ★吾妻郡東吾妻町
![草津街道にあった風景。[東吾妻町]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kurabuchikaiwai-10.jpg)
![草津街道にあった風景。[東吾妻町]](https://blog-imgs-84-origin.fc2.com/b/e/c/beccan/kurabuchikaiwai-5.jpg)
しばらく走ると、高崎から吾妻郡に入ります。

「殺生石」です。
説明の必要もないほど有名な、妖怪伝説「九尾の狐」。
妖怪九尾の狐が、この殺生石になっちゃったっていう
怖いお話ですね~。
=== 案内板より ===
殺生石と白面金毛九尾の狐伝説
石の香や 夏草赤く 露あつし 芭蕉
飛ぶものは 雲ばかりなり 石の上 麻父
あわれさや いしを枕に 夏の虫 桃隣
殺生石は、白面金毛九尾の狐伝説(九尾の狐伝説)として知られ、インド、中国
そして日本の三国にまたがる雄大な歴史を背景に、美女や妖怪、
宮中人などが登場する怪奇で広大なスケールとして描かれています。
また荒涼たる殺生石の情景は多くの文人たちによって
数多くの文学作品として紹介され、全国的に知られる史跡の一つとなっています。
話は、平安初期の鳥羽帝の御代。
インド、中国を荒らしまわった九尾の狐は、やがて日本へ渡来、
「玉藻の前」という美女に化身し、帝の寵愛を受けるようになりました。
帝の命を奪い、日本を我がものにしようとした玉藻の前は、
陰陽師の安倍泰成によってその正体を見破られ、白面金毛九尾の狐の姿となって
那須野が原へ逃げ込んだのです。

これを知った朝廷は、上総介広常、三浦介義純の両名に命じ
九尾の狐を退治させました。狐は死して巨石と化し、
その怨念は毒気となって近づく人や家畜、鳥獣をも殺し続けたのでした。
室町時代になって、これを伝え聞いた名僧源翁和尚はこの地を訪ね、
石に済度、教化を授け、持っていた杖で一喝すると、石は三つに割れ、
一つは会津へ、一つは備前へと飛んでいき、残った一つがこの殺生石である
と伝えられています。
殺生石は、室町時代の「下学集」に初めて登場し、その後謡曲「殺生石」が書かれ、
江戸時代には歌舞伎等の演劇の題材として上演され、
日本国中に知られるようになりました。
元禄2年(1689)、芭蕉がおくのほそ道で湯本を訪れたのも
殺生石を見るためでした。
殺生石は、これより賽の河原を経て300メートル奥にあります。
現在でも風のない日はガスが漂いますので御注意ください。
云々。。。

=== 案内板より ===
那須温泉
那須は温泉に恵まれており、湯本鹿の湯をはじめ大丸・北・弁天・
高雄・三斗小屋・旭・八幡・新那須・飯盛など数多くの温泉があります。
中でも那須湯本鹿の湯の歴史は古く舒明(じょめい)天皇の御代(奈良朝630年)に
狩野三郎行廣が、白鹿にみちびかれて発見したということです。
正倉院古文書駿河国正税帳に、奈良朝時代の貴族が
湯本温泉に湯治に来たことが記載されており、
古くから湯治の場として親しまれ今日に至っております。
左の絵は、明治38年ごろの湯本温泉を描いたものです。
云々。。。
那須湯本「殺生河原」でありますっ。

数多くの伝説や云われが残るエリアですが、
やはり有名なのは「殺生石」にまつわる〝九尾の狐〟ではないでしょうか?
こちらの「盲蛇石」は、その殺生石の手前、
殺生河原に入って間もなくにあります。
===
盲蛇(めくらへび)石 -その名の由来-
昔、五左ヱ門という湯守が長くきびしい冬を越すために
山に薪を採りに行きました。
その帰り道五左ヱ門がこの殺生河原で一休みしていると、
2メートルを超える大きな蛇に出会いました。
大きな蛇の目は白く濁り盲の蛇でした。
かわいそうに思った五左ヱ門は、これでは冬を越せないだろうと
蛇のためにススキと小枝で小屋を作ってあげました。
次の年、蛇のことを忘れなかった五左ヱ門は、
湯殿開きの日に小屋に来て蛇をさがしました。
しかし、蛇の姿はどこにもなく、かわりにキラキラと輝く湯の花がありました。
盲蛇に対する温かい気持が神に通じ、湯の花のつくり方を教えてくれたのでした。
その後、湯の花のつくり方は村中に広まり、
村人は盲蛇に対する感謝の気持を忘れず、
蛇の首に似たこの石を盲蛇石と名付け大切にしたのだそうです。
云々。。。