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笠科神社。[利根郡片品村]

日が傾き始めるころの片品村です。
笠科神社」にやって参りました★


笠科神社。[利根郡片品村]

平安時代に編纂された「和名類聚抄」という辞書の中に、
〝利根郡笠科郷〟の記載があり、
この「笠科」が変化して今の「片品」になったと云われているそうです。
笠科郷は、鎌田を中心としたエリアだったと推定されています。


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「手水舎」、「扁額」、「拝殿」。

こちらの笠科神社も、そういった歴史の中から
付けられた名前なんですネ。


=== 案内板より ===
由緒
社名 笠科神社

祭神
建御名之命、大日霊命、倉稲魂命、火彦霊命、天兒屋根命
事代主之命、大山祇命、誉田別命、大物主命、日本武尊他33社
不詳3座


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八百比丘尼堂。[栃木市]

以前よりチェックしていたところです。
浦島太郎にも似た伝説の残る場所。
栃木市西方町の真名子エリア。


八百比丘尼堂。[栃木市]

八百比丘尼堂」であります。

イノシシ対策なのかな?
電気柵がめぐっていて中に入れません Σ(゚Θ゚)

あそこのお堂に「木造八百比丘尼(おびくに)座像」が
安置されているようです★


=== 案内板より ===
木造八百比丘尼(おびくに)座像
むかしむかし、朝日輝命(あさひてるのみこと)と
夫人の夕日照命(ゆうひてるのみこと)が都よりくだり、
この地(愛郷・まなご)に暮らすことになりました。

庚申さまの恵みにより女の子をさずかり、八重姫と名付けました。
15・6才ともなると八重姫の美しさは都にまで聞こえるようになりました。
天子さまが姫を都に召し出そうとしましたが、
姫はこれを嫌い真名子の里を離れることになりました。

その途中、老翁(青面金剛の化身)に出会い、
目もくらむような立派な家に案内され幸せに暮らしておりましたが、
4・5年もすると両親のことがしきりと恋しくなり
再び真名子の里に戻ってまいりました。


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久保田城跡。[秋田市]

「秋田城」に続いてやって参りました、
久保田城」です!
歴代佐竹氏の居城跡。
今は「千秋公園」として整備されています。

ここはお堀のとこの「大手門跡」。


久保田城跡。[秋田市]

=== 案内板より ===
千秋公園の由来
この公園は、秋田20万石佐竹氏の居城、久保田城の城跡である。
久保田城は、慶長7年(1602)常陸から国替となった
初代秋田藩主佐竹義宣(よしのぶ)が翌8年に築城したもので、
天守閣と石垣のない城であった。

明治23年(1890)城跡を秋田市が佐竹氏から借り受けて公園としたが、
明治29年(1896)秋田県に移管され、造園家・長岡安平の設計により整備された。
昭和28年(1953)再び秋田氏に移管、継続的に整備、管理されてきたが、
昭和59年(1984)に、15代佐竹義栄氏の意志により秋田市に寄贈されて、
名実ともに市民の公園となった。

千秋公園の命名者は、秋田県出身の漢学者・狩野良知で、
「千秋」の由来は、秋田の秋に長久の意の千を冠し、
長い繁栄を祈ったものと言われている。
云々。。。


久保田城跡。[秋田市]

「松下門跡」。


久保田城跡。[秋田市]

「長坂門跡」。


久保田城跡。[秋田市]

===
御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)
御物頭は秋田藩の行政機構の中では番方に属す役職であり、
配下の足軽を指揮して二の門(長坂門)の開閉及び城下一帯の警備を担当した。
御番所の南側十四畳の部屋に物頭が詰めて登城者を監視した。
北側には七畳半の休憩所や台所・便所があり、
中二階には八畳の部屋が配置されている。

『国典類抄』などの資料によれば、御物頭御番所は
宝暦8年(1758)に焼失したのち再建され、安永7年(1778)以降の火災では
類焼を免れたと考えられることから、建築年代は18世紀後半と推定される。
久保田城内では旧位置のまま今日まで残っている唯一の建造物である。
昭和63年3月、保存修復工事を行い、平成2年に秋田市文化財に指定された。
云々。。。


久保田城跡。[秋田市]

===
久保田城表門
表門は久保田城本丸の正門で、一ノ門とも呼ばれていた。
本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、
左手には門の警備と管理をする「御番頭局(ごばんがしらべや)」、
門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)」
を置いて厳重な守りを固めていた。

久保田城は慶長8年(1603)に築城して翌年に完成し、
表門は元和8年(1622)に最初の建て替えが行われている。
その後、寛永10年(1633)、安永7年(1778)など何度か火災に見舞われている。
この門は、絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに再建したもので、
構造は木造二階建て瓦葺き櫓門であり、
佐竹20万石の正門にふさわしい壮大なものとなっている。
云々。。。


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秋田城跡。[秋田市]

秋田城跡歴史資料館に続いてやって参りました、
秋田城跡」ですっ。

資料館の前、道路をはさんで反対側にあります。


秋田城跡。[秋田市]

城跡といっても、戦国時代にあったような
天守閣のあるお城ではなくて、古代大和朝廷が造った
城柵(じょうさく)です。


秋田城跡。[秋田市]

建物とかは無くて、
門や塀が復元されたシンプルな史跡だけれど
楽しみ~♪


秋田城跡。[秋田市]

=== 案内板より ===
北東建物跡
ここでは5回建替えられた建物跡が見つかっています。
Ⅰ期~Ⅲ期の建物はいづれも東西の方向に長く、
Ⅱ期では、東西両側に壁で仕切られた部屋があり、
建物の南には、目隠し塀が付いていました。
壁で仕切られた部屋のある役所の建物は、後殿や脇殿に見られますが、
分室化されているのは、建物の機能や使われ方に関係があるものと考えられます。
云々。。。


秋田城跡。[秋田市]

===
正殿跡
正殿は、秋田城で最も重要な建物です。
庁内の建物で正殿やその前面の広場では出羽国の政務を執り行ったり、
定期的に貢ぎ物を持って訪れる蝦夷に対しての贈り物、
宴も行われていたと考えられます。
また、時には外国からの使節を迎えての儀式も行われていました。
この建物は、同じ場所で6回建て替えられています。
最後の建物は石の上に柱を立てる礎石式の建物ですが、
それ以前の建物は直接地面に柱を埋め立てる掘立式の建物でした。
云々。。。


秋田城跡。[秋田市]
政庁第1期 (733年~770年頃)

===
政庁とは
政庁の機能
政庁は、秋田城跡で最も重要な区域です。
政庁内の建物である正殿やその前面の広場では出羽国の政務を執り行ったり、
定期的に貢ぎ物を持って訪れる蝦夷の人々を迎え、味方に引き入れる目的で、
位階や布などを与えたり、宴を催したりしていました。
また、文献資料や水洗厠舎跡から検出した有鉤条虫卵の存在から
渤海(ぼっかい)など外国からの使節を迎えての儀式も行われていたと考えられます。
云々。。。


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雲谷寺の桜。[沼田市]

雲谷寺」であります。
前回に続いてのin 沼田市です。


雲谷寺の五輪塔。[沼田市]

本堂左手、墓地の手前にあるのがこちらです。
新田義宗公 慰霊詩碑」。
碑の裏側に云われが記してありました。


=== 石碑より ===
この漢詩の由来
父新田義貞と2人の兄の亡き後 新田氏族の総師となった左近衛少将義宗は
応安元年1368年3月 鎌倉の関東管領を討ち 関東の地を奪還すべく
越後で挙兵した
新田勢7千 押し寄せた足利勢6万 沼田台地滝棚の原で
3ヶ月に及ぶ激戦となった 新田勢の敗色が濃厚となった7月
高平の森で手勢を指揮していた義宗は 突然現れた敵勢の放った矢に
右目と身を射ぬかれ うつ伏せに落馬し絶命した 時に37歳であった

戦いが終わり 足利勢が撤兵した後 義宗の遺臣は池に隠した 
義宗の遺体を火葬にし 義宗陣没の森にその御霊を祀った
御霊を「うつぶし明神」 森を「うつぶしの森」と称し今に伝えている

義宗の死後3年目の応安3年=1370年 義宗の執事船田長門守経政は
ここ雲谷寺に義宗の墓として 無銘の五輪塔を建てた
云々。。。


雲谷寺の五輪塔。[沼田市]

こちらは新田氏と足利氏の「殉難者諸精霊供養塔」。


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