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ウワサのBECCAN。ブログbeccanです。グルメ、おサケな話、チマタの話題などなど。

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埋蔵文化財調査センター 発掘情報館。[渋川市]

渋川市です。
突然思い立ったように見たくなりましたっ。
あれからしばらく経つから展示内容も変わったかな?と。。。

「埋蔵文化財調査センター 発掘情報館」にやって参りました。
そう、「甲(よろい)を着た古墳人」さんに会いたくなって。。。



埋蔵文化財調査センター 発掘情報館。[渋川市]

=== 案内板より ===
金井東裏遺跡のあるところ
金井東裏遺跡は榛名山北東麓の扇状地扇端部にあり、
古墳時代の2回の大噴火によって埋まった遺跡です。
噴火は現在の二ツ岳の位置で起こったもので遺跡から8kmの近距離にあります。
二ツ岳は、2回目の噴火の時にできた溶岩ドームなので、
古墳人たちは見ていませんでした。
扇状地の東端は吾妻川に削られた、高さ20mほどの崖になっています。
遺跡から西側にある榛名山の峰々は近すぎて見えません。
云々。。。



埋蔵文化財調査センター 発掘情報館。[渋川市]

===
「甲(よろい)を着た古墳人」の発見
「甲を着た古墳人」は、平成24(2012)年11月19日に発見されました。
発見の一報で、関係者が現地に集まり、
古墳人が甲を着たまま火砕流により亡くなっていることを確認しました。
このような発見例は日本で初めてのことで、
世界的に見ても貴重なものであることは言うまでもありません。
すぐに甲の破片を事業団に持ち帰り、X線写真撮影をした結果、
小札甲(こざねよろい)であることがわかりました。
云々。。。


===
「甲(よろい)を着た古墳人」と3人の被災者
「甲を着た古墳人」(1号人骨)は自然流路の可能性がある
31号溝から発見されました。
「首飾りの古墳人」(3号人骨)は、「甲を着た古墳人」の西側17mのところ、
道が溝を横断する地点で頭を北東方向にして倒れていました。
乳幼児(2号人骨)は、「甲を着た古墳人」の東側2mの31号溝中に
頭蓋骨の一部だけ確認されました。
5歳児(4号人骨)は、「甲を着た古墳人」の北西27mの平らなところで
頭を南東方向に向けて、両手足を大の字に広げてうつ伏せに倒れていました。
人骨の観察と調査・分析は、
九州大学アジア埋蔵文化財センターの研究グループに依頼しました。
云々。。。



埋蔵文化財調査センター 発掘情報館。[渋川市]

=== 案内板より ===
①「甲(よろい)を着た古墳人」
身長164cmの40代の男性です。出土した状況から、
膝立ちの状態で上半身が前方左側へ倒れ込んだと考えられています。
頭蓋骨の形質分析と歯根のストロンチウム同位体比分析から、
近畿から北九州古墳人の渡来系統で、
西からの移住者である可能性が示されました。



埋蔵文化財調査センター 発掘情報館。[渋川市]

甲を着て冑(かぶと)を持ち、もう1つの甲と鹿角製の胸当、
銀と鹿角の飾りのついた鉾(ほこ)、鹿角の飾りをつけた鉄鏃を所有することから、
リーダー的な存在でマツリに関係する人物であった可能性が高いのです。
云々。。。



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かみつけの里博物館。[高崎市]
かみつけの里博物館。[高崎市]
かみつけの里博物館。[高崎市]

「かみつけの里博物館」に復元展示されている「履けないくつ」。
国内最古の資料と云われております。

ピッカピカですねー。
細かな装飾。
古代の職人さんの腕も相当なものです。



下芝谷ツ古墳。[高崎市]

というわけで、
こちらの飾履が発見された現場がこちらっ。

下芝谷ツ古墳」であります。
in 高崎市。



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日高遺跡。[高崎市]

高崎市にある「日高遺跡」にやって参りました。



日高遺跡。[高崎市]

緑が綺麗な史跡公園であります。


=== 案内板より ===
国指定 史跡日高遺跡(しせきひだかいせき)
日高遺跡の概要
日高遺跡は、群馬県高崎市日高町と中尾町にまたがる
弥生時代後期の集落遺跡である。

■発見と史跡指定
昭和52(1977)年におこなわれた関越自動車道建設に先立つ発掘調査の際に
発見され、弥生時代後期の墓域(方形周溝墓群)と水田跡などがみつかった。
水田跡は、浅間山の噴火で降り積もった軽石(浅間C軽石:3世紀後半頃)
に覆われていたため、保存状態が良く、あぜも残されていた。
さらに、水田に水を供給するための溜池状遺構(ぬるめ)や湧水の存在も
明らかになり、当時の水田稲作の様子をほうふつとさせる発見となった。
その後の範囲確認調査によって、
水田跡の東側で竪穴建物跡も確認されたことから、
居住域・生産域・墓域がまとまって保存されている重要な遺跡として、
平成元(1989)年11月9日に国の史跡に指定された(指定面積:約63000㎡)。
云々。。。


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光泉寺。[草津温泉]

草津温泉です。
朝の「光泉寺」さん。



光泉寺。[草津温泉]

右手に「釈迦堂」と、



光泉寺。[草津温泉]

「魚籃観音 ぎょらんかんのん」。

=== 案内板より ===
明和18年(1771)、草津温泉の代表的料亭桐屋、高原長右衛門が、
草津町泉水にある金比羅社に奉建したもの。
現在、光泉寺の中央階段を登りつめたところに静かに立っている。
造像の目的は、魚介供養のためであろう。
明治元年(1868)神仏分離令が出されたさい、
金比羅神社境内にあった百観音など多くの石造仏が散逸破却された。
この魚籃観音は、明治10年、光泉寺境内に移されて破却を免れた。
魚を入れた籃を裳裾にさげた優美柔和な面持ちが美しい。
高さ約1m。
云々。。。



光泉寺。[草津温泉]

こちらは「湯浴み弁財天」。

===
湯浴み弁財天 略記
養老年間行基菩薩はこの地にたち 眼下に光る泉を見出し
それがただの泉でなく万病にきく温泉であることを喜び
薬師如来をまつり光泉寺を開く
以来泉は人々の病をいやす慈悲の泉となり
今日の草津温泉の源となった

この池はそれにちなみ「慈悲の泉」となずけられ
名湯草津温泉に浴し身も心も清浄になった喜びと感謝の姿をあらわす
湯浴み弁財天をおまつりした
金光明最勝王経に弁天様は音楽 弁論 財宝 知恵の徳を司り
古くから庶民の信仰篤く霊験いともあらたかです。
云々。。。




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宝篋印塔。[草津温泉*光泉寺]

草津温泉です。
朝の散歩は「光泉寺」さんから。

参道の脇に、立派な「宝篋印塔」がありました♪


=== 案内板より ===
宝篋印塔
光泉寺境内に5基の宝きょう印塔があります。
その中で、中之条の二宮治右衛門と草津の山本重右衛門が献納したこの塔は
享保19(1734)年と最も古く、次いで宝暦、安永、寛政(江戸時代中~後期)
の各時代の塔が現存し、いずれも町指定の文化財となっています。



宝篋印塔。[草津温泉*光泉寺]

この塔の正面には『宝きょう印陀羅尼経』が刻まれ経文には
「この塔に一香一華を供え礼拝供養すれば、
八十億却生死重罪が一時に消滅し、生きている間は災害から免れ、
死後は必ず極楽に生まれ変わる」と功徳が説かれています。

宝篋印塔は宝篋印陀羅尼経を納めておく塔で、
先祖供養と現世利益を請願したものと思われます。
云々。。。



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